春?まだ?

お天気がよかったので、教室にガンガン掃除機をかけた。2月の水曜日の夕方は、小6の授業が消えて、ほっと一息。いろいろ溜まっていた仕事を片付けた。入塾案内も一件(新中1、2月22日入塾試験)。

懇談の申し込みがちらほら手元に届き始めた。明日あたりから、お返しします。メールで頂いた方には、メールでお知らせいたします。

中1は、中1の数学がいよいよ最終局面に入った。生徒にかなり実力差があって、演習時間を組み込んで多少調整しながら前進中。はやく連立方程式の文章題にもどりたい。1次関数の開拓も急務だ。

高校中級は、英文解釈で苦戦、ここでくじけてはいかん。前進、前進、前進!!!

 ここんところはまっている村上龍、「希望の国のエクソダス」を読了。不登校の中学生たちが、ITを駆使して、独自のネットワークを構築し、自主自立のコミュニティを北海道に作ってしまう、という破天荒なクライシス・ノベル。
 国際金融の話は難しくってほとんど理解できなかった。しかし、村上龍氏が近未来として描く情景が、必ずこの現実とオーバーラップするのは「愛と幻想のファシズム」のときと同じ。そして、どちらにおいても、この国の社会システムに対して、異議申し立てを行おうとする非常に強い意志が、恐るべき磁力で僕を捉えて離さない。曖昧なもの、微温的なもの、反動的なものを一切拒否する峻厳な刃が、行間から突きつけられていて、読書中、目をそらしたり、後ずさったりすることが許されないような緊張感を常に強いられる。それがなぜか心地よい。
 まがいものを次々と切り捨てていく歯切れのよさを、手放しで喜んでばかりもいられない。なぜなら、僕自身、切り捨てられる立場にいるから。決して自虐的に楽しんで終わりにできるわけでもないので、苦く重く受け止めて、ざっくり切りつけられた部分を抱え込むことにもなる。 この国の異常さに鈍感でいることを、叩きのめされるように教えられ、さぁどうするんだ、と覚醒を迫られている、と言ってもよいだろう。
 「海辺のカフカ」(村上春樹)のカフカ君も15歳の家出少年だったけれど、彼の問題は本質的でありながら、僕にとって切実な問題にはならなかった。ヒリヒリするような痛みがそこにあることは理解できるのだけれど、都合よく配置されているカフカ君の周りの人たちが、あまりにご都合主義的で、神話的な解決も不可解で、どうにもつきあいきれないもどかしさがあった。村上龍を読むと、そのもどかしさがよくわかる。肝心なところで、あまりに曖昧でウエットに流れている。逆に言えば、村上龍の、曖昧さのない、論理的に構築しようとする虚構がドライすぎる。あの「泣き声」を音楽としてとらえる心の深淵は別として。
 この二月は、もう少し、村上龍を読むつもり。
 耐毒性がつくか、中毒になるか、それとも忌避して逃げ出すか、いずれにしても、毒のある小説ばかり。