きょうもいろいろ、たぶん、明日もいろいろ

朝、懇談のため塾にやってくると、昨夜、結局カギを見つけられず置いて帰ったはずの生徒の自転車がない。で、気がついた。たぶん、家にスペアキーがあって、それで回収できたのだろう、と。と、すれば、昨夜、あんなにムキになって探し回ることもなかったわけで、、、と、いろいろ思ったけれど、まぁ、よかった。

小6あらためプレ中1の授業
 きょうは紙媒体の英和辞典の使い方を練習した。辞書で単語の意味を調べる基礎訓練なのだけれど、毎年、恐ろしいほどの個人差を目の当たりにする。アルファベットをまだ完全暗記していなくて、hとl、どっちが先に来るか、a から声に出して順番に口にしないと確認できない子は、まだ良いほうで、単語の配列が、「アルファベット順」になっていることすら認識できていない子もいる、毎年、絶対確実に。
 辞書なんだから、一定のルールがあって、日本語の辞書なら「あいうえお順」だから、英語の辞書なら「ABC順」だろう、という類推は、かなり論理的な発想のできる子の芸当だ。
 たとえば、本棚の整理をするとき、どういうルールで人は整理するだろう。人によって、サイズでそろえていって見た目を整えることに腐心する人もいれば、ジャンルと内容によって分類し、大きさには頓着しない人もいるだろう。まさか、背表紙の配色を気にして並べなおす人はいないだろうけれど、まぁ、人それぞれなんじゃないか、と思う。そうした本棚から、書名を頼りにある一冊の特定の本をみつけるときの苦労を思えばよい。自分の蔵書を「あいうえお順」に並べる人はいないから、片端から見ていくしかない。30冊ならすぐにスキャンできる。でも100冊だったら、もし、2000冊だったら、、、、
 生まれて初めて英和辞典を手にした子が、なんのアドバイスもなく単語の意味を調べるように指示されたとき、単語の配列ルールを考えることもせず、とっさに何を手がかりにしてよいか分からないまま、闇雲にページをめくっても、僕は責められない、と思う。「本棚検索」と同じことだから。ものごとにはきまりがあって、きまりに従って行動すれば合理的に行動できる、と、子どもなりに一定の認識がある子は、経験を積むに従って次第に明確に規則を理解し、単語検索のスピードをみるみる上げていけるだろう、たぶん、異なる言語の文法を理解するにはそうした力が絶対的に必要になる。しかし、きまりを意識することが不得手、あるいは、経験則に従ってルールを発見することが苦手な子には、「やってればわかるでしょ」という発言はあまりに酷なものとなる。いくらやってもわからないから右往左往することになる。焦れば焦るほど、ただページをめくり、運を天に任せて、単語を探すことになる。(最初の一文字は、辞書に印刷された文字のゾーンと一致することはわかるようだけれど)それでも驚異的な持続力をもっていれば、何とかなるかもしれないが、、、
 生徒がひとり、あまりに困っているので、個別にある単語をとりあげて、「アルファベット順」に探していく要領を教え、次に実際にやらせてみせ、自力で単語を見つけることに成功したところ、まさに感に堪えぬ声音で「そうだったんだぁ」とつぶやいた。
 僕も喜びつつ、むしろ素直すぎるその反応を心に刻んだ。これから数年間、この子に英文法のきまりを教えるとき、小刻みな階梯を効果的に連続させて、バリアを最小限にしてやらなければならない、と思った。バリアフリーの英語の授業をどれだけこの子にできるか、JRが駅にエレベータを作るのより難しいのではないか。
 ルールは認識できているけれど、恐ろしく不器用で単語の捜索に時間のかかる子には電子辞書を使わせてみた。ぽんとキィを押して単語の意味を発見したときに、喜ぶこと、喜ぶこと。苦労していたところだっただけに、その恩恵の大きさに感動していた。泳ぐことのできない子が、突然、水に放り込まれ、溺れるのではないかと絶望的な気分でいるときに、ぽんと浮き輪を渡されたような安堵感を感じたことだろう。周りの子達から受けるやっかみの凄かったこと。
 とりあえず、電子辞書は紙媒体の辞書の使い方を習得してから購入するように子どもらに言った。今すぐ買う必要は全くないけれど、電子辞書を敵視することもないように思う。辞書を引いて意味を調べるバリアを小さくする道具としての効能は大きい。電子辞書にはさまざまな科目で、調べ物をするとき圧倒的な威力を発揮する場面がたくさんある。
 しかし、英語学習に特化して言えば、電子辞書はまだ発展途上の機器であろう。紙媒体の辞書と比較して、バックライトがあっても見づらく、狭い画面はどうしようもない。ぱっと一瞬で目に入ってくる情報量の差はいかんともしがたい。画面スクロールと思考の流れがシンクロすることもかなり困難だ。
 「辞書は読むものだ」という言い方があるけれど、電子辞書でそれを実践させると、まず間違いなく視力が悪くなるだろう。読む気になれる電子辞書ができるまでに、まだ数年かかるような気がする。検索機能の強化が先行したのは当然としても、液晶画面の性能向上はそう簡単ではないだろう。
 きょうの授業で、一番最後に出した課題は、Look before you leap. だった。具体的な指示を出さなくても、leap の項で、例文をみつけて逐語訳を免れた生徒がいた。そうしたちょっとした発見が、たぶん、辞書をひく楽しみになっていくだろう。ひとつずつ片端から日本語に置き換えて、奇妙奇天烈な訳文を作ってしまった子に、例文に目を通すことを教えると、これまた実に素直に感激していた。
 英語を学ぶ、ということが、実は、自分たちが所属している文化とは異なる文化を学ぶことなのだ、という初歩的な体験をできた子もいれば、それ以前の段階で悪戦苦闘している子もいた。例年通りの混沌とした状況を、おもしろい、と言えるのは今だけにちがいない。いずれさまざまな評価を受けるようになれば、そんなことは言えなくなる。おもしろがるために授業料をもらっているわけではないから。

 なんだか長くなった。どうか、彼らの語学学習の道程により多くの感動と感激がありますように。

 では、また、明日。