LONG LONG SATURDAY

もう本当に土曜日の長いことっ!
おまけに試験対策が中心の夕方以降は、適性検査対策の採点にかかりきりになった。能動的に状況の変化に対応することに慣れている頭は、反復される受動的作業のせいで、ボーっと霞んでしまって意気のあがらないことはなはだしい。
それでも時折、適性検査試験だからこそ、その特性がはっきり出る子がいて、採点しながら思わず笑みがこぼれる。多様な試験があればこそ、多様な子どもが評価される。ごく当たり前の事実に嬉しくなる。
それでも評価されない子どもはいる。それも現実だ。そういうわけで塾屋の仕事は尽きない。

高校3年生はこれから週末は模擬試験の弾幕を突破して塾に辿り着くことになるのだろう。体力・気力が大いに試されることになる。タフでなければしのげない日々、根拠のない自信を糧に走り抜けてもらいたい(笑)。現役生の強みだから。

昨夜「青葉繁れる」(井上ひさし)を読みながら、ぷっと吹き出していると(5ページに1回は笑ってしまった)、通りがかった妻が「何ひとりで笑ってんのよ」とクールに一刺し。小説の場面状況をいちいち説明することほど野暮なことはないので、「いや、おかしくて」と流した。
勝手に日本三大青春小説と定義している作品群がある。「どくとるマンボウ青春記」(北杜夫)「ムツゴロウの青春記」(畑正憲)「やぶれかぶれ青春記」(小松左京)のみっつ。これらについては、以前にどこかで触れた。それらに続くものがたぶん、村上龍の「69」と井上ひさしの「青葉繁れる」になる、僕にとって。
50にもなって「青春記」というのは多少恥ずかしい。「老年記」ではなくても「中年記」を読め、と言われそうだ。しかしそんなものは見当たらない。たぶん誰も書く気になれないのだろうし、たとえあっても読む気にならないだろう。共感を呼び、感動を誘うにはあまりにも平板な日常生活に縛り付けられているから、たぶん、多くの人々が。
「青春記」系の本を読んで「あの頃はよかった」とかぜんぜん思わないのだけれど、まとわりつく現実をドーンとひっくり返して笑い飛ばしてしまう元気が湧いてくる。
登場人物たち(男子高校生)が深刻に悩んでいる姿が実に馬鹿げていて笑っているとき、たぶん直面する現実にあたふたしている自分の姿をも笑っているのだろう。同化しやすい対象のおかげで見えない自分が抽出されて映っているのだろう。
いくつになってもアホだなぁ、と、今さらながら自覚した夜であった。