授業中の塾屋のルール

授業中に、ポンポン指名しながら答え合わせをするときのルールとその考察。

確実に正解がでてきそうな子はなるべく指名しない。授業が無味乾燥な答え合わせだけで進行することになるから。絶対不正解になってしまう子にも当てない、授業が停滞するから。

そこそこ不正解になる可能性が高い子にあてる。適当に解説を入れられるので、授業が活性化する。こちらが解説したい、と思う問題で、きちんと不正解を出してくれる子を狙う、と言ってもよい。だから、正答率の高い子には応用・発展レベルの問題をなるべく振り当て、正答率の低い子には基礎・標準レベルの問題をなるべく振り当てる。そうすれば、子どもらの劣等感やら優越感やら、デリケートに扱う必要のある感情をあまり刺激せずに、それほど退屈でもない、ふさわしい緊張感を維持した授業ができる。

できるはずなんだが、それが口でいうほどうまくいかない。思惑どおりいくわけがないのは、人間相手の取り組みだから当然のことで、予想もしない反応が出てくるのはきわめてあたりまえのことだ。

それが、おもしろい、と言えばおもしろい。それをどうさばいて、授業を成立させ、伝えたい内容をできるだけ正確に、できるだけ印象深く教えられるか、というところに、塾屋の腕のふるいようがある。

不正解だったとき、子どもらはその性格に応じてさまざまな反応をする。

萎縮して極端な低反応状態に陥ってしまう子がいる。誰でも失敗を恐れる気持ちはあるけれど、ちょっと過剰に持っている子は、リカバリーが遅れる。「どうして、そうなったんですか」と軽く尋ねても、鋭い叱責のように受け止めて固まってしまう。気の毒なほど張り詰めて言葉を失い、恐怖心で縛られて思考が停止するようだ。あるいはプライドが高すぎて、周囲を意識しすぎてしまうのか。

感情的に迫っているわけでもないのに、そんな反応を見せられると、あれまぁかわいそうに、と思う。とにかく、思考がなめらかに回転するように、時間稼ぎをして平常心をとりもどさせる。あるいは、必要以上に周囲を意識しなくて済むようにもっていく。

過剰反応から、無意味な返答を連発する子もいる。瞬間的な躁状態に陥るのだろう。本人は一生懸命なだけに、逆に滑稽なことになる。ツッコミどころ満載になるので、笑いをとるのは簡単なのだけれど、ただそれで終わったら内容ゼロ。生徒をひとり笑いものにして終わることになる。目的は未達成。まず、落ち着かせる。冷静にひとつひとつ論理的な回路をつくっていく。誰がどう対応しても確実に正解に至る道筋を示す。

過剰反応する子は、ムードメーカーになりやすい。本人がそれを心得ていて、場を茶化すこともうまい。身に付いた防衛本能だろう。それはそれでその子の属性として、集団内で一定の機能を果たすこともあるだろう。しかし、学力を身につけるという点で、必ずしもプラスにならないこともある。高度な集中力を発揮して、論理的思考を駆使するには、気持ちのブレを最小限にして、ぐっとこらえてじりじりと進まなければならない。そうした持久力と過剰反応するメンタリティは相容れない場合が多い。

 

楽しく学べたらいい、と思う。しかし、学習内容が高度化していくにつれて、その楽しさはより内面的な達成感になっていく。表面的な楽しさばかり追求していては、内容が浅くなる。逆に内容的な楽しさを追求しすぎては、子どもらの意欲に荷重負担となる。そのバランスをどうとるか、毎回試される。

 

あらゆる仕事がそうであるように、限られた時間、限られた環境の中で目的を達成するのはいつだって矛盾と軋轢との戦いである。思い通りにならないことが次々発生し、対処療法に追われて本質を見失ううちに、責務を大きく逸脱したいびつな作業でがんじがらめになることすらある。結果をもとめるあまり、過程の充実を疎かにし、拙速に過剰な指導を繰り返せば、子どもらを損なうのは必至であろう。意欲過小、集中力減退、散漫で落ち着きがなく、無闇と反抗的で、辛抱強くとりくまなければならない建設的な取り組みが大の苦手、といった子になる。

 

教えたいことをきちんと理解させ、子どもらの学習能力を向上させ、自信を大きくしてやるには、教える側には、目的遂行の明確なイメージがなければならない。授業計画書や指導案を何枚読もうが、何枚書こうが、あまり役にはたたないだろう。子どもに何か教えるには、やってみて、ひどい失敗をして、歯ぎしりするほど後悔して、途方もなく恥じ入って、それでもやるしかないと開き直って、コンチクショウ・パワーを発揮し、上達していくしかない。

 

時間をかけて遠回りしなければならないときは、勇気をもって敢えて遠回りすることも学ばなけれならない。子どもの成長は、直線的なものではないし、単純増加の曲線でもない。成長と同じくらい後退するときもあれば、飛躍する確率と堕落する確率はほぼ等しく顕現する、と言って良い。子どもの成長の邪魔をしないようにサポートするとは、そうした状況をまるごと受け止めるということだ。

 

そこに喜びを見いだせる人は、熟屋にむいているし、見いだせない人は向いていない。

先日、子どもらに「先生の趣味は?」と聞かれ、冗談半分に「子どもを教えること」と答えた。えええー、と怪訝な表情を示すこどもらに「俺は仕事と趣味が一致しているの」と追い討ちをかけた。

半分冗談だけれど、半分本気である。