「週刊朝日」と「文藝春秋」、あるいは「りぼん」「別冊マーガレット」

「週刊朝日」と「文藝春秋」は、父が購読していた。

それは小学館の「小学6年生」を取り寄せていた本屋から、同じように配達され、居間のテーブルの上にいつも転がっていた。「小学6年生」を卒業した村上は、旺文社の「中1時代」よりも学研の「中1コース」よりも、「文藝春秋」と「週刊朝日」の熱心な読者になった。

「三角大福中」の記事を「週刊朝日」で面白く読んだのは1972年(村上が中1)だった。同年、「文藝春秋」の臨時増刊号、『「坂の上の雲」と日露戦争』 は、ボロボロになるまで繰り返し読んだ。その後、「坂の上の雲」は村上のバイブルになり、司馬遼太郎はメンターとなった。1975年(高1)、田中角栄を退陣させた立花隆氏の「田中角栄研究」も「文藝春秋」で読んだ。(データが多くてあまり面白いと思わなかった。日本のジャーナリズムの記念碑的傑作という意義もさっぱり理解できていなかった。まぁ、その程度の読者だったということ)1977年(高3)、ダッカ事件が起きたとき、「人命は地球より重い」と超法規的措置をとった福田総理大臣を、「文藝春秋」巻頭エッセイで、田中美知太郎氏が激しく論難した文章は、なぜか心によく残っている。

父がなぜ保守色の濃い月刊誌と、どちらかといえば反対の傾向をもつ週刊誌を同時購読していたのか、尋ねる機会を既に失っているのでよくわからない。父はリアリストではあったけれど、ごりごりの伝統主義者というわけでもなく、左翼全般に敵愾心は抱いていた(会社では人事課にいた)けれど、極右も毛嫌いしていた。大阪の下町で生まれ育ったバランス感覚のなせる技だったのかもしれない。おかげで息子はバランス感覚よりも左右いずれもとりこむ分裂気質になった。

小学校高学年から突如始まった村上の乱読に、「週刊朝日」は欠かせないポジションが与えられていた。今どきの子どもが、ネットから情報を拾ってくるような感覚といえばよいかしら。オモシロ情報が毎週毎週届けられる、そんな気分で読んでいた。つまらない雑学を週刊誌から身につける暇があったら、もっと有益な読書や学習があったろうに、と今にして思う。ただ、丸谷才一氏を「週刊朝日」で知った影響はおおきかったように思う。丸谷才一氏も、以後、村上のメンターとなった。

「文藝春秋」と「週刊朝日」という「大人が読むもの」を、理解力は半端なくせに雑学欲だけは旺盛な読者であった村上は、どうでもいいような知識を蓄えてしまうことで、大人びた意見を偉そうに語れる鼻持ちならない生意気な子どもになってしまった。これはかえすがえすも残念なことであった。しかし、自然となったものは仕方がなかった、とも思う。いや、まぁ、そういう性格に生まれついていただけの話といば、それまで。

さらに乱読が嵩じて、高校2年の後半からは少女漫画に目覚めて「りぼん」「別冊マーガレット」を毎月購読するようになった。今で言えば、オタクの傾向もあったのだろう。一条ゆかり氏の「砂の城」を毎号楽しみにしていた記憶がある。少女漫画に目覚めたきっかけは友人のK君やI君に負うところが大きい。気の合う仲間にすすめられて、うっかりはまってしまうというのはよくあることで、よかったのか悪かったのか、もっと知的に感性を磨く方法があったのではないか、と思いつつも、「世界の広がった感」は確かにあった。妻と共通の話題があるのも役立つと言えば役立つ。

若い頃、読書体験にはカテゴライズされない四冊の購読書があった、というお話。今、そういう購読書はない。「文藝春秋」なんて30年近くも買っていない。「週刊朝日」は、結婚当初ぐらいまで時々買っていた。それも、「それって「週刊朝日」に書いてあったの?」と妻に話題のネタ元をつっこまれるようになって、やめた。気がつけば実際そうであることが多々あったからだ。「世界の広がった感」を必要としなくなったわけではなく、精神的に背伸びをしなくてもよくなった、ということだろう。

十代後半、誰よりも才気走った人柄を無意識に演出したかったのだろう、と思う。もっと難しい本を読むだけの力はなくて、平均的なサラリーマンが読むレベルの雑誌がちょうどお似合いだったのだ。いやお世話になったのに、そんな言い草はないか。確かに「世界の広がった感」を与えてくれた貴重な雑誌だった。今はネットがそれを代行してくれている。

少なくとも、ゲームにうつつを抜かすことはしなかったのは幸いだった。徹夜でドラクエをやったのは、塾屋になってから、結婚してからだから。十代にゲームにはまっていたら、もっと後悔していただろう。