決戦の夏!とか嘘です。

受験勉強に「決戦」なんてないよ。

大日本帝国海軍が、日本海海戦の勝利の呪縛にはまり、太平洋戦争では「決戦」至上主義に凝り固まって戦略的にも戦術的にも大失敗した事実を考えればわかりやすい。補給を軽視し、海上護衛に対する戦略的洞察に欠け、船団護衛、対潜戦術に関して恐ろしく無知であったことや、大艦巨砲主義から航空主兵転換に後れをとり、航空機搭乗員の大量養成を怠ったことなど、例をあげればきりがない。

海軍のみならず、できもしない「本土決戦」を呼号して、無駄に「負け戦」を継続した政権担当者たちの責任は、たとえようもなくもっと重い。「決戦」は、酩酊度の高い言葉だ。たった一回の勝負ですべてが決するような戦いを「決戦」と呼ぶのだと思うけれど、たぶん、そんなものは軍事的ロマンチストの思い描く妄想でしかない。

日々の連綿と続く消耗戦をより合理的に戦い抜いた側が勝つ。地味で目立たない局地戦のトータルが最終的な勝敗を決める。より大きな局地戦は存在するけれど、一発勝負ということにはならない。ミッドウェイだって、マリアナ沖だって、あるいはレイテ沖だって、たとえ、一時的、局地的に戦術的優位を占めることができていたところで、太平洋の戦いで、帝国海軍が合衆国海軍に勝てるわけがなかった。国力の差、なかでも工業生産力の差をくつがえすことのできる一発勝負なんてありえなかった。

受験勉強も日々の学習の積み重ねが大切なので、夏だけどうこうしたって駄目。その前後の7月も9月も同じように大切なんです。いや、夏で挽回するってことならできるし、夏から調子を上げて秋に一気に飛躍するってことも可能。そういう意味で夏が重要というのなら、そのとおり。しかし、挽回するにも基本的な知識がなければならないし、飛躍するには土台になるべき基礎学力がいる。基礎・基本ができていない人間、とりわけ、目的達成意識を強くもって、自分の行動を制御できる自律的習慣のない人間が短期間に何かを成し遂げるなんて絶対無理だ。

高い志をもってストイックに勉強に励むことができるのはひとつの才能だ。生まれつきその才能に恵まれている少数の幸運な子もいる。もってうまれたわけではないけれど、後天的に得た強力な動機から、その才能を自ら強化し、驚異的なレベルにまで伸ばすことのできる子も中にはいる。やはり、もってうまれたわけではないけれど、周囲の支援のおかげで、その才能を養成し、やがて自分のものにし、持って生まれた子たちと対等以上にわたりあう子も多い。しかし、どんなに支援されても、享楽的刹那的刺激に左右され、制御された学習を持続することが苦手な子はもっと多い。

夏までに持続的に学習できるスタイルを身につけている子たちは、正しい方向ベクトルを与えれば、自力で加速していく。秋からは成長を楽しみにするだけでよい。
持続的学習が身につきかかっている子たちは、飽くことなく惜しみなく断固として基礎基本のスタイルを身につけさせる。うまくいけば秋から飛躍できる。
持続的学習がなぁんにも身についていない子たちは、素直な性格なら、焦らず一歩ずつ階梯を登らせる。そのうち、目覚めと気づきがあって劇的変化を遂げる。
素直な性格でないなら、強制力を存分に発揮して、LECのルールと掟を容赦なくたたきこむ。まぁ、そうは言っても、子どものもっている一番よいものを引き出すことができなければ、そんな押し付けは有害無益な精神的暴力に他ならない。そんな暴力はやめてもらいたい、と誰しも思うだろう。私だって嫌だ。だから、できるだけそんなことはしたくない、と、思っている。

それって、子どもの発達段階の差に応じた接し方ですよね、とか言われると、ちがうよー、と笑ってしまう。個性に応じた接し方ですね、と言われたら、そーだねー、と言ってもいい。

小学4年生でも、凛とした自意識のもと、自発的に自己鍛錬にいそしめる子もいれば、高校生でも、無自覚に現実逃避を繰り返し、自己抑制の苦手な子もいる。
得手不得手と言うしかない。受験勉強にむいている性格とそうでない性格がある。親の躾とか育て方がまったく無関係とは思わないが、主要因とも思えない。
もってうまれた才能、性格の一部。だから、自己抑制が下手だからと言って、怠けている、というわけじゃぁない。本人に、怠けている、という自覚はない。のんびりしているだけだ。いや、周囲から、怠けている、という自己否定的な意識を刷り込まれてしまっている子もいる。身近な家族から、のべつ幕なしに批判されされていたら、誰だってそういう意識をもつようになる。
無用かつ不毛な自己否定は、向上心の足枷にはなっても、エネルギーにはならない。子のありのままの姿を簡単に受けいれられる親は多くない、努力と工夫が要求されるところだ。

「入試で成功するためには、ふだんから、同じぐらい緊張した状態でやらないとだめ。ふだんちゃらんぽらんな奴が、入学試験本番で、びしっと決めることができるわけがない」と、まぁ、一年中言ってんだけれど、子どもがそうそう自分の集中力を最高レベルで自在に発揮できるわけがない。それが、塾の教室で、それなりに友達と競争状態にあって、ちょっと恐い塾屋がいて、「やるぞ!10分間だ」とか言われたりすると、スイッチが、カチッとはいったりする。夏の講習の良さは、それが連日続くってことだ。連日続くとそれが習慣になる。人間は習慣の奴隷で、上手によい習慣を身につければ、意識しなくても高い水準で知的な作業を行えるようになる。

とは言っても、スイッチの入らない子もいれば、スイッチが入った瞬間に、もう切れた、とかね、いや、どこを探してもスイッチがない! とか(笑)。まぁ、いろいろ。
スイッチの入らない子には、スイッチを入れる快感を教える必要があるし、入れた瞬間に切れる子は切れないように何かつっかえ棒をする必要があるし、スイッチのない子にはスイッチを作る必要がある。
夏の講習は、時間がたっぷりあるから、そうしたいつもはできないような対応ができる。あるいはさせられる。そういう意味で楽しみな期間ではある。ただいっぱい勉強するっていうのは、大学入試ならあてはまるかもしれないけれど、小・中学生は、量じゃなくて質的な部分で、平常授業ではできない指導ができるところが、教える側の楽しみになる。

学習面で、技術的にできないことをできるように導く作業が表面的な一次的受験指導だとすれば、自己制御された持続的学習をできるように導く作業が、二次的受験指導で、夏の講習は、この二次的指導に効果をあげられる期間だと思う。だから、楽しい。

いや、そんなに楽しいことばかりではない。むしろ、楽しくないことの方が多い。そもそも一次的指導が必ずしもうまくいくわけではない。何度教えてもしくじる子はいる。同じ失敗を何度も繰り返す子らをみていると、塾屋の自信は音をたてて崩れる。たかがその程度の自信しかないくせに、二次的指導が楽しみ、とは不遜極まりない発言であろう。矛盾も甚だしい。

甚だしいんだが、矛盾があろうとなかろうと、やっぱり傲岸不遜の誹りを免れないんだけど、できないことがいくらあっても、楽しいものは楽しい。困ったもんだ。すみません。

そもそも子どもらの成長に接して楽しくない大人がいるだろうか。心がたくましく育つ過程に伴走できることはいつだって楽しいことじゃないだろうか。塾屋がそれを楽しみにするのはあたりまえのことではないだろうか。

そんなんどうでもいいから、勉強できるようにしてください、という声もどこからか聞こえてくる。そして、それはもっともな主張であるようにも思う。塾屋の責任の範囲が、塾屋の思惑とずれて、自己満足化したらどうしようもない。

夏の講習に思いを巡らしていたら目が冴えて寝つけない夜更けに、パソコンを立ち上げてしまったばかりに、まとまらないブログになってしまった。
ああ、夜が明ける。