ご報告3   レクイエム in  因島

承前
朝、起きると抜けるような青空。
「お天気でよかった。じめじめした記憶はいやだったから」
と言うと、妻が
「お父さん、晴れ男だったじゃない」
「そうだっけ、、、運のいい人だ」
高速道路を時速90㎞で走る。
免停まであと1点しかない。


父の亡くなった晩、しまなみ海道から、尾道バイパスに降りてきて、トンネルを抜けたところで広島県警に止められた。60㎞制限の道を85㎞で走っていた。走り出すときは「安全運転で行こう」と自ら言っておきながら、沿線で県警がアンブッシュしているのはそこしかない、と知っておきながら、気がついたときにはバックミラーの中で回転灯がまわっていた。
その夜、まさに「泣き面に蜂ね」の妻の言葉に返す言葉もなかった。
だから、絶対法令順守運転。



親族控室には予定通り到着した。
叔父や姪たちにあいさつしながら、寝ている母の枕元にいくと、
「あら久しぶり、白髪が増えたね」と一夜明けた定番の言葉。
うん、久しぶり。元気そうね、と迷いなく返事。
「昨日の晩はたいへんだった、何回もトイレにいった。寝ている私に向かって座布団を二枚も投げてきた。完璧に遊んでいた。修学旅行気分だったらしい。アルツの特徴は夜の徘徊なんだから寝る前には睡眠誘導剤を飲ませないとダメなの!」と、母に添い寝してくれた姉のマシンガン・トークが炸裂。バコバコに穴だらけにされたので、ホールド・アップして、すまねぇ、薬を渡すの忘れてた、と謝罪。「だから、寝てないの。それに朝9時には放射線治療も受けてきたし、眠い、眠い」そこへ、妻がすかさずコーヒーを持ってきてくれて、姉のご機嫌がやや良くなった。五月に乳癌の手術をうけ、治療中の女王陛下には目覚めのブラックが効く。

立ちあがると左足の親指の先に違和感がある。目をおろすと、なんと穴のあいた靴下をはいているではないか。どうしよう、これ見てよ、穴があいてるよ。と妻にみせると、「もう、なんでそんなの選んでくるのよ、四つもだしてたでしょ。昨日は踵にこんな穴があいていたし」と言うと、姪のRが「すすむ兄ちゃんらしい」とケタケタ笑う。こうすればいいんだよ、右と左の靴下をはきかえ、穴を右足の小指の下に巻き込む。ほら、大勢に影響ない。しかし、誰も感心してくれない。無理もないか。

姪のRはフィアンセと、孫代表で読む「おじいちゃんへの手紙」を控室の片隅で推敲している。いいカップル。「うちの娘もああいう人を連れてきてくれたらいいのに」と親目線の妻。素直に同意、いい奴だ。雑用係として、買い出しやら送迎やら酷使されているけれど、気持ちよく動いている。実に助かる。

娘は葬式の日が二十歳の誕生日だった。過密スケジュールをやりくりして、父に別れを告げ、翌朝東京にもどり、その日の夜には羽田をたち、明けごろにはシンガポール・チャンギ空港に到着しているはずだった。ゼミの教授のお供(小間使い)で今年三度目の海外。無事についたのやら。

事務処理をドタバタこなしながら控室を出たり入ったりしていると、Y叔父が「そろそろ片付けようか、S叔母さんがもうじき来るでぇ」と笑いながら言う。5人兄弟の二番目、父が生前もっとも頼りにしていた妹、頭のキレは父以上、言語明瞭、言葉に無駄がなく、行動力も抜群で、ビジネスの才覚を存分に発揮してきた方、五男のY叔父にはちょっと怖い姉さん。妻が緊張する。結婚式以来話したことがないらしい。ふーん、でも心臓のバイパス手術してから丸くなったけどなぁ、と、先月のお見舞いの時に会った印象を口にしつつ、内心、どうか怒られませんように、と身構える自分がいるのも事実だった。

片付けも終わるころ、棺を控室から会場に移動したいと、担当のM氏。はい、わかりました。ちょっとお待ちいただけますか、母さん、父さんにちょっと挨拶しておこうか。母を抱きかかえ、棺の窓まで運ぶ。ふたたび、母は、「とうちゃん、とうちゃん」と泣きながら、冷たくなった父の額に手をあてすすり泣く。もういいかい、もういいね、うん、じゃぁ運んでください。お願いします。母をお姫様だっこして布団にもどそうとした瞬間、枕元の牛乳パックを踏んで母の飲み残しのミルクが布団にぷしゅっ。「もう、あなたという人は」と妻。

受付の方もスタンバイしたので、会場入り口に立つ。右手の掌の中には、小さく折りたたんだ喪主挨拶の原稿、朝、だいたい暗記して頭の中に入っていたが、失敗の恐怖が去らない。
22日午前中、諸連絡の合間にノートパソコンで書き上げ、午後には会葬できない娘にモニター上で読ませることができた。そのあと、部分修正を加え23日脱稿、プリントアウトして司会進行の女性と姉には目を通してもらっていた。担当のM氏から渡された定型文からは、最初と最後の決まり文句だけもらい、あとは、思いつくまま一気にかきあげた。書きながら泣いた。泣きながら書いた。

以下が原稿。現場では原稿を手にしないで話したので、一字一句この通りというわけではない。


遺族を代表いたしまして、皆様にひとことご挨拶を申し上げます。
本日はお忙しいところ、ご会葬、ご焼香を賜り、まことにありがとうございました。
脳梗塞が発症して4か月、入院加療、リハビリ中に肺炎を併発し、6月21日、午後から半日のうちに突然容態が急変、誰ひとり思いもしなかった形で父は旅立ちました。

83年の父の生涯を簡単にご紹介させてください。

昭和3年、父は大阪の下町の豆腐屋に、五男二女の三男坊として生まれました。学業に秀でた子どもであったと父自らよく語っておりました。
昭和20年、空襲によって焼け出された一家は、父の両親の出身地、因島重井町に疎開しました。

父は、戦中・戦後に二人の兄と父親をを失いました。その結果、一家の大黒柱として家族を養うために、高等学校を首席卒業し、入学が内定していた大学をあきらめ日立造船に入社いたしました。
父が、生涯の痛恨事として、大学をあきらめ就職せざるを得なかったことを泣きながら語った小学校2年の夏のことを私はしっかりと覚えています。
ただ、社内結婚で母という生涯の伴侶を得たことは、しかし、父の人生にとって最大最高の幸運だったかもしれません。

おそらく20代から30代の若き父は、戦争の結果、突然背負わされた家族の長としての責任をまっとうするために、全力でなりふりかまわず仕事に励んだのだと思います。父が時折見せた頑固一徹な性格は、歯を食いしばって生き抜いたこの日々の所産であろう、と私には思えます。
そして、時折、度を超して酒をたしなんだ逸話もたくさん残しました。
自分の心の弱さをコントロールできないまま、あびるように酒を飲んだ父の心情を、当時の父よりも歳をとった今の私は理解できます。
父が父なりに職業人としての使命をまっとうすることができたのは、艱難忍苦に耐えつづけたやさしい母がいたからです。

「他人に頼るな、自分の力でなんとかしろ」子どもの頃、よく父に言われました。突き放されたような気分になりました。
今にして思えば、それは父が自分自身を叱咤激励する言葉だったのだとわかります。こうした高圧的で常に批評的な父の一面をうらんだこともありました。今、すでにもの言わぬ父には、むしろ、ただただ 
「父さん、父さんはよくがんばった、よくやった。つらかったよな。俺たちには、強く生きろって言いたかったんだろ」と言ってやりたいと思います。

父には、そうした近寄りがたい恐い一面と同時に、心優しく情にもろい面もありました。
叔父や叔母たちと仲睦まじく昔話に興じる姿には、家族をどこまでも慈しむ優しい心が溢れていました。
父が息をひきとってから、私が思い出すのは、実は父のそうしたあたたかく優しい姿ばかりです。
一緒に釣りに行ったこと、キャッチボールをしたこと、家族で映画に行ったこと、旅行に行ったこと。
ひとりの少年として味わった父の肌のぬくもり、においを生き生きと思い出すことができます。

もう口にする機会がないので、この場を借りて父に生前言えなかったことを言っておきます。

「父さん、父さんはいい父さんだった、俺は父さんの子どもでほんとによかった。生きているうちに言っときゃよかった。誰があんなにあっさり逝っちまうって思うんだよ。俺たち家族が傷つけあったり励ましあったりしながら、いっぱい思い出をつむいできたことをこれから語り合う季節になったばかりだったのに、、、」

厳しい父でもありました。優しい父でもありました。矛盾の塊のような人でした。人付き合いの下手な気難しい父でした。皆様に、生前一方ならぬご厚誼にあずかり、こうしてお見送りまでいただき、さぞ喜んでいることと思います。

皆様のご厚情に心からあつく御礼申し上げます。

今後とも変わりなくご指導ご厚誼を賜りますようお願い申し上げて、ご挨拶とさせていただきます。

本日は誠にありがとうございました。



以上、ご報告を終わります。

突然の授業打ち切り。三日間の臨時休講、LECの生徒・保護者の皆様にはご迷惑をおかけしました。ご協力ありがとうございました。
なんとか、父を見送ることができました。

苦手だったお骨ひろいも、不思議とその瞬間は冷静でした。まさに以下の気分。

オヤジ、俺が骨を拾ってやる