あれこれあっても日はのぼり

 塾屋力を試された。
 二週連続で、週末にオプションの試験(英検と学力テスト)があってとことん試された。
 結論、塾屋の経験値は指導力の向上に比例しない。「俺は授業がうまくなった」と思っているとしくじる。常時「下手くそだから、一生懸命やるしかない」
 平常授業において、いいテンポで説明がすすみ、板書もすっきり過不足なく要点をつき、類題演習も順調に消化して、ああいい授業だった、と思うところに必ず落とし穴がある。
 次の授業で抜き打ちテストをしてみればよい。達成率はよくて6割、ひどければ3割を切る。それがごくふつうだ。実に残念だけれど。
 ただ、なかには常時8割以上の達成率を示す子もいなくはない。類まれな集中力で、授業中に聴いたことはほぼその場で暗記でき、説明も再現できる。さらに、その日のうちに学んだことを復習し定着を図り、宿題も高度な集中力を発揮して短時間に要領よくすませ、知識の体系化を自律的に強化する。30人にひとりかふたりの割合でそういう子がいる。そういう子たちは塾屋といい関係性を維持しているので、あらためてプレスする必要がない。勝手に結果をだしてくれる。結果をともに喜べばいい。
 「よくて6割」の人たちは、叱咤激励の対象になる。「なにやってんだぁ」からはじまって「おおぉぉ、できるようになったかぁ」まで、地を這う反復演習が必要になる。膨大な練習量をこなすことで、知識が正確に記憶され、因果関係や法則性がクリアーに理解されるようになる。プリント演習、採点、間違い直しという気力、体力を必要とするタフな時間の確保が必要になる。その過程で、時にある日ある時、すばらしい飛躍を示し、非連続的成長段階に突入する子にもめぐりあえる。それはいつでも突然始まる。ただし、継続的な演習過程にしか起こりえない。棚から牡丹餅はない。さなぎの期間がなければ羽化することがないように。
 率直に言って、そうした僥倖を期待するべきではないのであろう。ほとんどの子は、時間と競争しつつ連続的成長の中で目標に接近する。達成できるかどうかは、運・鈍・根 にかかってくる。
 「ひどければ3割を切る」人たちは、課外演習が増える。増えるけれど伸びない。伸びないからまた増える。結果的に、気力・体力を消耗するばかりで、意欲は減退し、集中力は摩耗する。だから、ほどほどにしなくてはならない。できる範囲のことを明確にし、基礎基本が確実にできるようになることに指導の主眼をおく。必要なら何度でも同じことを繰り返す。手堅く背伸びせず、小さなステップを小刻みに刻むことになる。もっとも重要なことは、意欲に乏しい、記憶力が悪い、集中力がない、という本質的な問題を置き去りにして、目先の成績を云々するべきではない、ということだ。何かひとつのことができるようになる喜びがすべての出発点で、認められ、尊重されることから、意欲は増し、記憶力は向上し、集中力は高まる。そうしたトータルな視点をもって指導していけば、状況はかならず好転する。ただし、時間はかかる。
 時間がかかる=本人の自然な成長、ではないか、とも思う。鉛筆をもって考え、問題を解いていくのは本人だ。心身の健全な成長があれば、学習能力の改善は自動的に行われるのではないか、むしろ、塾屋がいらないお節介をやかない方がよいのではないか、と思わないわけではない。
 たぶん、そうした事例もあるだろう、しかし、牧歌的に心身が健全に成長するにはあまりにせちがない世の中になっているし、心身の健全な成長=学習能力の改善、と考えるには、あまりに阻害要因が大きすぎる情報社会になっている。
 だから、塾屋の社会的役割も生まれ、日々、塾屋力が問われることになるのだろう。敢えて言えば、塾屋力は試験結果で問われているのではない。指導している子どもの成長で問われているのだ、と言うべきなのだ。