教え子たちが教えてくれたこと

 「わかりましたか」と問わずに授業をすすめるのは難しい。

 授業の節目節目で口にする。

 そして生徒の反応を探る。表情・雰囲気、その他もろもろ。

 しかし、人は見たいものしか見ないから、下手に直感に頼ると失敗する。

 自惚れの強すぎる塾屋が「俺が教えたんだからわかっているはずだ」と考えると必ず失敗する。塾屋歴36年!とか尊大な自意識をもっている塾屋は間違いなく大失敗する。

 経験豊富な人間が、経験の陥穽に落ち、先入観に惑わされることは珍しくない。生徒のノートのとり方、類題演習の正答率、質問の仕方、複数の要因を謙虚につぶさに観察していけば、そんなに的はずれにはならないが、炊飯器でご飯を炊くようには必ずしもうまくいくわけではない。

 小学生なら無邪気に「はーい、わかりました」とこたえてくれるかもしれない。

 しかし、それは、当然あてにならない。

 自己認識能力の低い子たちの情動的発言は、状況を複雑にすることはあっても理解度を測る尺度にはなりえない。彼らはあくまで「わかったつもり」になっているのであって、多くの場合「わかっていない」ことが多い。「わかりたい」気持ちが強すぎると、「わかりました」と言いたくなるのは人情だ。その機微がわからないと小中学生を教えられない。

 だから、小中学生の「わかりません」という発言も正しく扱うのは難しい。

 とりわけ精神的に弱い子は、「わかりません」=「かまってください」 であることが多い。

 甘ったれた依存心を間接的に訴えている生徒は、探求心より安心感を優先させがちだ。安心感は理解を前提としているのだから、わからない不安感を訴えることはまちがってはいない。ただ、きちんと理解することで不安を払拭しようとするのではなく、かまってもらうことで不安を解消しようとするから理解が中途半端に終わり、結局、わからないまま終わる。

 「どうしたの」と声をかけてもらって、それなりの説明を受けると一時的に不安は消え、「わかった」気になる。幼い子どもであれば自然な成り行きで、そのまま安心してしまう。さらに一歩すすんだ真の理解はそこからはじまるのだが、安心して満足してしまうと、そこで止まってしまう。

 練習して確かめて、独力で挑んで正解する、その繰り返しを怠ると、気分で終わってしまって実力的には一ミリの伸長もない。練習するには根気がいる。独力で挑んで正解を出すには向上心がいる。環境を調え、子どもらの根気と向上心を粘り強く育てていかなければならない。

 家庭で子どもたちが「わからなーい」と口にするとき、それをどこまで正しく把握するか、親の能力が問われる。しかし、親子間で適切な判断がなされること稀だし、感情がバイアスになってかえって事態を紛糾させかねない。素直に親の説明を聴ける子は少ないし、淡々と説明できる親はもっと少ない。

 生徒がわかったかどうか、テストをして客観的に判断するのが一番手っ取り早い。八割以上の得点が可能なら「理解している」と判断し、八割未満なら再テスト。間違い直しをさせ、理解を深める作業をさせる。

 教科によって、分野によって、その基準は上下する。大切なのは子どもたちも納得できる基準を境にして、合格・不合格をはっきりさせることだ。常に一定のレベルまで到達することを義務として課していくなかで、自分の学習スタイルを創りあげさせる。

 あるものは人よりたくさん練習する必要性に気づくだろう。あるものはスピードを犠牲にしても丁寧に解くべきだということを自覚するだろう。それぞれ自己の長所と短所を意識するところから、自分にあった学習法は構成されてゆく。

 いずれにしても、よく見て、よく聞いて、よく考えることから始まる。知的な活動を持続する集中力が根底になければ、見たつもり、聞いたつもり、考えたつもりになるだけで、疑似理解に終わる。勉強のやり方がわかっていない、と評される子どもの大多数は、集中力に問題を抱えている。

 集中力は、教えて教えられるものでもない。ただし、自分は受け入れられ期待されているという承認欲求が満たされ、新しいことを学ぶのは楽しいことだという知的好奇心が健全に備わっていれば、年齢とともに必要な集中力は必ず身につく。

 あせらず働きかけ続けることを怠らなければよい。どんなに失敗しても期待し続け、面白く教える工夫をつづければよい。

 教え子たちが塾屋に教えてくれたことである。