中間試験対策のおだやかな日曜日、脳はセーブモードに入る

  朝、2時間、高3の英語の授業をした。和文英訳と英文解釈。国公立2次型のスタンダードな問題を、ひとりひとりのつくった答案を個別に批評しながら解説した。あまりよいできではなかった。「年内3か月を有効に使えば、現役生は1年分の学習ができる」と励ました。

 そのあと2時間は小6の適性検査対策。作文の上手ではない子らに、ポイントを押さえた文章(360字)の書き方をやってみせた。

 「いいかい、思ったことをダラダラ書いてもダメだ。指示に従って構成を考え、要求されている課題に的確にこたえていくんだ」

 焦らず演習を積み重ねれば、必ず上達する。上手ではない=伸びしろがある、ということ。たぶん、彼らが受験する学校の問題なら合格答案を書けるようになる。

 論理的思考力をみる問題は、五線譜と音符と繰り返し記号を使った見た目トリッキーな算数の問題。愚かにも「音楽の問題」と決めつけて、「わからん」とか言ってしまうと、アウト。ちゃんと問題文を読めば、算数の問題だとわかる。しかし、文章読解力がない子には無駄にハードルが高い。これを本当に「論理的思考力を問う」といってよいのかどうか。もっと素直な出題で、「論理的思考力」を問うことは可能だろう。解説をしながら、慎重に問題を選ぶべきだった、と反省した。

 先日結果が公表された文部科学省の学力テストの問題もそうだ。「過去問演習をしないように」、というお達しが、文部科学省から出た。しかし、あの学力テストのように、子どもらには、ふだんなじみのない出題形式で、何をこたえてよいのか考えさせられてしまう問題を目にしたら、教える側があらかじめ「慣れさせよう」と考えるのが自然だろう。

 文部科学省が調査しようとしている、子どもらの客観的な「学力」を客観的に測る「テスト」なんてものは、たぶん、ない。ある特定のテストに対して、どれだけ決められた手順で、最適解と認定された答えを出す力をもっているかどうか、結果として出てくるのは、そのデータにすぎない。それを「学力」と呼ぶのは勝手だが、そのデータをもとに各県の「教育水準」を比較し、批評することにどれだけ意味があるのか。行政が施策の検証をするためにエビデンスを必要とすることは理解できる。だったら、徹底的に子どもらの「学力」を伸ばすトレーニングを大いに奨励し、過去問演習も解禁してやればいい。過去問演習をしたことで、客観的なデータがゆがめられるような問題なら、出題そのものを根本的にあらためればよいだけの話ではないか。

 

 授業をしないで監督だけしていると、意識が遠のく。室内温度30度、湿度39%。村上にはすこぶる快適だ。油断すると睡魔に襲われる。子どもらのコンコンとシャーペンを走らせる音もパサパサと答案用紙をめくる音も、実に単調でどんどん頭の中がかすんでゆく。コーヒーに頼ってなんとか立っている。セーブモードに入った脳味噌でつらつら思い浮かんだ「学力テストをめぐる話」でした。