君は本気か

 「君は本気で受かりたいのか」

 目の前には少女がいる。第一志望の過去問演習を終えた。結果を申告用紙にまとめて怒ったように突き出す。算数は4割の得点もない。くやしさは十分伝わってくる。腹立たしさも。この気の強い子が絶望的な結果を肯定するはずがない。では、全力で反発しているのか。それはない。諦念とともに受け入れているのか。それもない。波打つようないらだたしさしかない。

 救いを求めているなら簡単だ。励ませばよい。能力的には何の問題もない。逃げ出そうとしているのなら、叱ればよい。君の進むべき道はそちらではないことを諭せばいい。無自覚に他者に依存するほど弱くはない。その子なりの努力はしている。だから逃げているわけではない。抗いつつも自分に確信がもてないため、不安に苛まされている。

 もし、今やっていることに確信があり、数か月後にやってくる入試の時に、確実に結果が保証されているならば、不安の虜になることもなく、泰然自若として日々の営みに邁進できるだろう。

 もちろん、一片の不安も感じないなら、すでに人ではない。仙人だ。明鏡止水の境地は容易く訪れるものではない。「人事を尽くして天命を待つ」とは、ごく少数の人生の達人に許された言葉であって、大多数の人間は、不安に懊悩し、情緒不安定に陥り、非合理的な行動に走りかねない。そこを踏みとどまる知恵をもっているかどうか、あたたかく周囲の者がガードできるかどうか、それが結果を左右する。

 しかし、決定的要因は「本人の本気度」である。迷わず、一直線に目標に向かってつきすすむ「本気」こそ、残り数か月で受験生が試されるコアである。

 時に「本気」は、わがままに通じる。なぜなら、他人にかまっていられなくなるからだ。物事を先鋭化させていけば、不寛容にならざるを得ない。はなはだ見苦しいありさまを露呈しかねない。日本的美徳ー感情をむき出すことなく慎み深く穏やかに事をなすありようを尊ぶ心性ーとは相いれない。まして、自我も十分に発達していない未熟な子たちがあからさまにそのような態度を日常的に示せば、ふつうの市民社会では排斥されかねない。

 それはいい、すでに個人で解決できる問題ではない。派生的に生じる、副次的な問題だ。一過性の摩擦や孤立は捨て置けばすむ。いずれ誰の記憶にも残らない。人はそれほど他人への関心を持続できない。

 「本気」を問う。

 結果をもとめているのであれば、「本気」を求める。経験を求め、興味・関心をもてあそびたいなら、「本気」は野暮だ。重たすぎる。

 君、そういうことだ。だから、「本気」でやろう。

 君たちになしとげられないことなどない。

 たかが受験だ。こわがることなど、何もない。正解の存在する世界だ。

 君たちが本当に怖がらなければならないのは、正解のない世界で生きていくための知恵をみにつけられるかどうか、ということだ。それはずっと先の話だ。

 しかし、いずれ来る。それまでに、正しい認識力を身につけ、適切な判断力を養い、合理的な行動を思いやりをもっておこなう術を獲得するのだ。

 すべては、そのためのトレーニングにすぎない。

 だから、もう一度言う。

 「本気」でやろうぜ。