「繰り上げ合格」エレジー

少年がひとり、市立福山中学に繰り上げ合格した。

「繰り上げ合格しました!」破顔一笑、満面の笑み、うれしそうだった。

 

過去二年、苦戦続きだった。

本人なりに一生懸命だったが、甘さもあった。

よく怒られた。

それでも、ひたむきに自習によく来た。

昨年末、自主プリント演習の算数で、「やるじゃん」という結果も出始めた。

 

「ジャイアントキリングをおこせ」が合言葉になった。

 

作文は筆のすべることが多かった。

自己顕示と自己表現の境目があいまいで、時に逸脱しては怒られた。

はまったときは、説得力のある個性的な文章を書きあげることができた。

 

入試直前最終週には、市立福山中の合格ラインを越えられるようになった。

あとは、自信と勢いと運次第。ちょっぴり多めの幸運が必要だった。

 

そして、ちょっぴり多めの幸運を彼はひきよせた。

お見事。

「土壇場の現場力」が彼にはあった。

ご家庭のあたたかいご支援が、彼の「現場力」の源泉だったように思う。

 

 

広大附属福山高校にも、少女がひとり繰り上げ合格。

「たぶん、今週中には連絡が来るよ、でも、15日を過ぎたら期待できない」と告げたのが、9日の日曜日。

連絡があったのが14日のきょう。

そして、この話は、いまのところ、ここまで。

よく努力した。

その努力がある意味報われたことを喜びたい。

 

広大附属附属福山中の繰り上げ合格を待ちつつ、市立福山中に入学手続きをした少年がひとり。

覚悟はしていた。

辛い。

彼は感情を表に出すタイプではない。

それだけに、その心情を推し量ると、いっそう辛い。

 

もちろん、

中学入試はたんなる通過点で、これからも競争と選抜の過程は連綿と続く。どのような結果がでたところで、きちんと現実を受け入れ、前を向き、できることにベストを尽くしていけば、自ずと道は開け、人はなるべきものになってゆく。一時の感情に拘泥するな。

というのは正しい。

 

しかし、なまじ中途半端な期待を抱かされ、他力本願の宙ぶらりん状態になると、切り替えて前へ進もうとする気持ちが揺さぶられ、ぐらつくのは避けられない。

スパッと結果が出たら、腹もくくれる。

もしかしたら、と思うと、それができない。

そして、不完全燃焼のまま「タイムアウト」。

弄ばれた感満載。

しかし、それを理不尽というのは控えよう。

あらかじめ、わかっていたことだし、今にはじまったことではないし、たかが中学入試だ。

だから、あらためて切り替える。

くよくよしたら、切り替える。

なんどでも立ち上がる。

 

いまだに思い出す。

昔、附属中入試には、くじ(抽選)があった。

学科試験の合格者が一堂に附属の体育館に集められ、寒さに震える保護者の見守る中、子どもらがひとりひとり壇上に登り、箱の中からくじをひいていく。

その後、合格者が発表され、静かな歓喜と暗い絶望が館内を満たす。

娘はくじにはずれた。

 

妻が嗚咽をこらえつつ、泣き崩れる娘の肩を抱きかかえながら、体育館から出てくる姿が蘇る。

 

時折フラッシュバックする。

いまだに切ない気分になる。

 

そのあと、車の中で何を話したか、何も記憶がない。

ただ、その足で小学校へ向かい、娘が授業に出たことは覚えている。

そして、いつものように下校してきた。

その後、娘は、淡々と公立中学へ進学した。

あたかも定められた運命であるかのように。

あれから17年。

 

『過ぎてしまえば、どんな悲哀もどんな苦悩も、すべて思い出になる』(宗像 仁「エースをねらえ!)

賢者は、するどく人生をの本質を突く。

同意するしかない。

 

だから、前を向く。

予定調和になるとは限らない。

有為転変は人知のおよぶところではない。

しかし、できることはあるし、やるべきこともある。

だから、前を向き、前進する。

 

 

 

たかが通過点、この先、

 

競争と選抜の分岐点は山ほどある。

どんな結果であれ、きちんと受け止め、しっかり前を向けば、未来への糧になる。

状況に流されないことだ。

大人がしっかりフォローすることが大切だ。

子どもがひとりで制御できることは限られている。

適切な距離を保って、立ち向かうべき現実の見取り図を提示するべきだ。