こういう日もある

8月15日は色々思う日だ。「終戦記念日」と言うけれど、「敗戦記念日」が正しい。とか、どうでもいいけど、あれこれ考えてしまう。

今年はちょっと違った。

夜になって、カープとサンフレッチェの試合が中継された。阪神の大竹君は人を食ったようなスローボールを時折投げる。敵ながら天晴れ、やるじゃんと思ってしまう選手だ。マウンドにいる。でも様子が違う。カープが3-2でリードしている。今年、5回限定で先発ローテーションに入ってきた若鯉、斉藤裕太君が自慢の速球とフォークボールで押している。勝てそう。ハハハ、首位の阪神に連勝するかも。期待に胸がふくらむ。

斉藤君は勝利投手の権利を持って5回を投げ切った。いい笑顔だった。

チャンネルを変える。おお、サンフレッチェは浦和レッズと1-1、何だ、こっちも勝てそう。鬼門の埼玉スタジアムで浦和に勝ったりしたら、勢いつくぞ。うーん、迷うが今夜はサッカーだ。この試合は見逃せない。

前半アディショナルタイムにコーナーキックから、新外国人が待望の来日初ゴール!まだ名前も覚えてない。選手を確認していると驚いたのなんの、中村がいない。フランスへ行ってる。田中はドイツへ。ジャーメインと木下は清水エスパルスへ。あちゃー、ちょっと関心を失っていると、もう浦島太郎だ。顔ぶれが大きく変わっている。監督の名前がどうしても頭に入らないのは老化のためだろうけど。

後半もサンフレッチェは浦和を圧倒している。ゲーゲンプレスが面白いように決まる。浦和はなすすべがない。中島君から塩谷君に絶妙のパス、落ち着いてニアにシュート。難なく3点目。その後、4点目を鈴木君が決めた。

 鈴木君はこの日2得点。なんといっても1点目が圧巻だった。サンフレッチェ陣営最深部から出た短いパスがワンタッチかツータッチで次々繋がれ、あっという間に右サイドへ大きくふられた。縦パスが通り、一気にゴール前へ迫る。クロスがあがり、ファーにいた鈴木君の足下へ、左足一閃、ボレーシュートが突き刺さる。

いやはや、スペイン代表も顔負け、美しいゴール。何度見ても飽きない。成熟したチームのみが演じられる奇跡の連続パス。

サンフレッチェの勝利に気分を良くしてカープの試合にもどると、5-2で森浦君がなげていた。ひゃー、勝つぞー!歓喜雀躍。

 

こういう日もある。

 

無名の公立高校が甲子園に行けたわけ 市立福山高校の場合

第108回全国高校野球選手権広島大会決勝戦で、市立福山高校が、大方の予想を裏切って、広島商業を破った。春夏通じて、甲子園初出場を決めた。思いもよらぬことで、驚天動地のできごとだ。

衝撃的な決勝戦の数日前、ウェブ上でベストエイトに残った学校を見た時、優勝は広陵か広島商業のどちらかになるだろう、と予想した。どちらの学校も野球の上手な子が県内外から集まり、優秀な指導者からハイレベルの指導を受けながら、切磋琢磨している野球名門校だ。並の高校が太刀打ちできる相手ではない、と思った。だから、広島商業を破った市立福山高校は並の高校ではないのではないか、という疑問が湧く。“無名の公立高校”にカテゴライズされるのは当然としても、市立福山高校の強さには何か理由があるのではないか。今回のブログはその探索の記録だ。

 

準々決勝前日、市立福山高校はベストエイト止まりだろうと思っていた。それだけでも大健闘だ、とさえ思った。ところが、なんと市立福山高校は準決勝に進出した。ニュースで結果を知って、「これはすごいことだ、福山は大騒ぎだ」と思った。つい数年前まで、部員数が足りなくて連合チームを組んでいた公立の学校が、準決勝に進出する。大健闘どころではない、大事件だ。

高校野球は監督次第か、とその時ふと思った。というのも、枝広福山市長が、市立福山高校野球部監督に、迫田守昭さんを招くと発表したことが記憶に残っていた。迫田さんが体調不調で、昨年7月に退任したことも知らずに、僕はてっきり迫田さんが市立福山高校を強くしたのだと思った。迫田さんは2002年春、2004年夏に広島商業の監督として甲子園に出ている。岩本貴裕さん(ガンちゃん・広島カープ)、柳田悠岐さん(ギータ・ソフトバンク)が広島商業の監督時代の教え子にいる。

迫田さんを僕が初めて知ったのは2013年夏の広島大会決勝、広島新庄高校対瀬戸内高校の試合だった。迫田さんは広島新庄高校の監督だった。広島新庄高校の田口麗斗君(巨人→ヤクルト)と、瀬戸内高校の山岡泰介君(オリックス)が息詰まるような投手戦を展開した。延長15回を戦って、0-0の引き分け。すごい試合だった。再試合も0-1の熱戦だった。

2014年夏も広島新庄高校は広島県大会決勝で広陵に負けた。2015年夏は、2年生のサウスポー堀瑞輝投手(のちに日本ハム)を擁して悲願の初優勝、甲子園初出場を決めた。あまり話題になることもなかった県北の学校を、とうとう甲子園に導いた迫田さんの手腕に僕はつくづく感服した。2016年夏も堀投手で連続優勝。この年は甲子園もベスト16までいった。迫田さんは押しも押されぬ広島の名将となった。2020年、広島新庄高校野球部監督を退任された。

2021年8月31日、枝広福山市長の定例記者会見で、迫田さんが市立福山高校野球部監督に就任すること、2021年度補正予算案に2670万円の施設整備費が計上され、市立福山高校に防球ネット、ピッチングマシン等が調えられることが発表された。2022年4月、市立福山高校に迫田さんが満を持して着任、市立福山高校野球部の子たちに、技術的な指導は控え、自分で考えることを強く求めた。2025年7月大会直前、体調不調で退任。志半ばで残念だったろうと推測する。

迫田さんのおかげで市立福山高校野球部の土台が調った。2022年からの3年4カ月で、施設が整備され、野球の上手な子たちが集まって、野球部の底上げがすすんだと思う。

コーチだった長門功さん(28・慶応大学野球部出身)が迫田さんのあと急遽監督を継いだ。長門さんは「甲子園は誰でも行ける場所」と部員たちに熱く語り掛けた。年齢の近い長門さんの言葉に部員たちは深く共鳴した。しかし、2026年3月、「8月に甲子園で会えると信じています」の言葉を残して青森県の弘前学院聖愛高等学校に長門さんは転任、野球部のヘッドコーチに就任した。ちなみに弘前学院聖愛高等学校は、今夏、青森大会決勝で、延長10回、タイブレークの末に青森山田高校に惜敗し、甲子園出場はならなかった。

長門さんの指導のおかげで、甲子園をぐっと身近に感じるようになった部員たちのもとへ、2026年4月、知将の誉れ高い小田浩さんがやってきた。夏の大会までは4カ月弱、状況は厳しかったが、小田さんは「まだ100日ある」と述べられた。練習時間の短い公立高校では「捨てる勇気」がいると語る小田さんらしい名言だ。年に数回もしないような守備のサインプレーの練習なんかしなくていい、と言い放ち、送りバントの練習も時間をとらない。何時間練習しても失敗はする、と達観している。ピンチになっても外野を安易に前進させない。1点もやらない、と考えるより、1点やって複数得点を防ぐことに重点をおく。後半に必ずチャンスはくるから、3点まではとられていい、だから、最小失点でしのいでいくことが大切だ、と。小田さんのこうした考え方がチームに浸透し、広島大会の準決勝、決勝の逆転勝利につながったのだと思う。

小田さんの考え方をリスクマネジメントと呼ぶ人は多い。弱者の戦い方、という人もいる。なるほどなあ、と思いつつ、僕は、小田さんは徹底したリアリストなんだと思う。限られた練習時間、戦力でどう戦うか、極限まで考え抜かれた緻密な思考がはりめぐらされている。それでいて、飾らないユーモアがある。

小田さんも広島商業出身。あの池田高校が蔦監督に率いられ、金属バットで猛打をふるった1982年夏、広島商業は甲子園の決勝で池田高校に12-2と一蹴された。小田さんはそのとき広島商業の二塁手だった。その後、順天堂大学に進学、卒業後、広島県内で教員になり、赴任した広島県立西城農業高等学校で1991年夏、1993年夏に甲子園に出場。。2005年、新設の総合技術高校に赴任。1期生部員3名、草むしりから1年目ははじまった。しかし、創部3年目、2007年の夏には、決勝まで勝ち進み、野村祐輔(広島カープ)、小林誠司(巨人)のバッテリーがいた広陵に、延長11回、4-3で敗れた。この夏、広陵は、甲子園で準優勝だった。

小田さんは、2011年春には総合技術高校を率いて甲子園に出場、その夏で野球から身を引かれた。その後は、教諭、校長として業務に専念、市立福山高校に来る前は、市立呉高校、竹原高校等の校長を勤められていた。

今夏、広島大会準決勝は試合開始からテレビで観戦した。市立福山高校の校歌が流れた。作詞は谷川俊太郎さん。作曲は林光さん。文科省の役人が「そろそろ福山もエリート教育をやりませんか」と言って、市立福山高校に併設中学を作り、120名は中高一貫生として中学から、80名は従来通り高校から募集するようになった2004年、新しく作り直した校歌だ。校歌っぽくない、いい校歌だ。林光さんは、僕が中学生の頃、夢中になったNHKの大河ドラマ「国盗り物語」のテーマ曲を作曲した人だ。意味もなく、「いいぞ」と思った。

もうひとつ、感心したことがあった。市立福山高校のナインは一律丸坊主ではなかった。個人の自由意志に任されていた。とてもいい。丸坊主にしたい生徒はすればいい。自由が一番だ。市立福山の勝ちパターンが長髪の來山君と丸坊主の岩本君の継投というのは絵になる。

さらにもうひとつ、「福山市民を驚かす」、この市立福山高校野球部の大会テーマがいい。パンチがあって、若者らしい自負心にあふれていて、思わず応援したくなる。なんて愉快な連中だ、と思った。

登録選手20名は、みな高校からの外進生だ。中学入試で入った子はいない。そして、全員公立中学卒だけれど、学校の部活動で野球部に入っていた子は5,6名だ。大半の子がクラブチーム出身だ。2年生のサウスポー岩本君はカープジュニア(広島カープの少年野球チーム)の出身で、全国大会も経験している。

2年前、リハビリに通っていた病院の理学療法士さんは、春、小学校4年生の息子が通う少年野球チームをどこにするか、真剣に悩んでいた。息子に最適のクラブチームを見つけるのは簡単ではない、と教えられた。冬、雪の降った日には父兄総出でグラウンド整備をするんです、ハハハ、と、苦笑されていた。そのクラブチーム出身のプロ野球選手が現れると、保護者も子どもも憧れのヒーローに接するように畏敬の眼差しで集まるんです、ハハハ。屈託なく笑う笑顔には、息子の健やかな成長を願う父親の慈しみがあった。たぶん、市立福山高校野球部の少年野球出身の子たちも、小学校4年ぐらいから、家族にバックアップしてもらいながら、野球の技術を磨いて来たのだろう。技術指導はしない、と迫田さんがいったのは、逆に言えばみなそこそこ上手な子たちが集まっていたからではないか、と思う。。

野球部で一番成績の良いエースの來山君は、TV番組のインタビューで、「準々決勝と準決勝の間の休養日に模試を受け、いい気分転換になりました」、と笑いながら言っていた。進学校の生徒らしいウイットに富んだ発言に思わず笑ってしまった。

というわけで、市立福山高校野球部は、ここ数年類まれな指導者に恵まれ、部員ひとりひとりが自分で考えることができるようになっていた。小さいころから野球に親しんできた子たちが、臆せずプレーする開放的なメンタリティをもつようになった。緻密な思考で試合の流れを読み、危機管理に長けた指揮官がいた。

市立福山高校は並の高校ではなく、名門校にも勝てる実力を持った“隠れ実力校”だといってよいのではあるまいか。

甲子園初戦は、8月10日(18:30開始)、相手は強豪天理高校。是非、楽しんでもらいたい。

ひとりの福山市民として、市立福山高校野球部の健闘を祈ります。

Once Upon a Time in Innoshima 4

僕はもの心ついた時から、カープファンだった。だから、毎年、鯉のぼりの季節まではワクワクしながらプロ野球の話題を追いかけられるのだが、5月も中旬になると見るも無残な成績にため息をついていた。夏場に入る前にはBクラスが確定し、シーズンが終わるまで、カープが浮上することはなかった。

1975年は、開幕前から、ちょっと違った。カープがいつになく熱かった。球団初の外国人監督ジョー・ルー ツ(1925-2008)が球団に染みついていた負け犬根性を一掃するため、帽子・ヘルメットの色を赤に変えた。選手全員に闘志あふれるプレーを求めた。トレードも活発におこなって戦力を補強した。大好きだった安仁屋さん(1948- )がいなくなったけど、闘将大下剛史(1944- )さんがやってきた。外国人助っ人、ゲイル・イーソン・ホプキンス(1943- )とリチャード・アラン・シェインブラム(1942-2021登録名はシェーン)は、真面目で情熱的なメジャーリーガーで、期待できそうだった。胸が高鳴った。

ところが、そんなルーツが4月下旬に辞めた。どうなるかと心配した。後を継いだ古葉竹識さん(1936 - 2021)は凡事徹底、ルーツのこだわった右打ち戦術を忠実に踏襲した。さらに機動力を駆使してチームの攻撃力を劇的に向上させた。例年とは異なり、5月をすぎても快進撃は続いた。外木場(1945- )、池谷(1952- )、佐伯(1952- )の3本柱が堅調だったし、阪急からトレードできた宮本幸信さん(1945- )が抑えで好調だった。

甲子園球場の、オールスター第1戦が圧巻だった。山本浩二さん(1946- )と衣笠祥雄さん(1947-2018)が、ふたりそろって2打席連続アベックホームランの大活躍だった。「赤ヘル」の3文字が新聞のスポーツ欄に踊った。以後、「赤ヘル」はカープの代名詞になった。嬉しいことに夏場を過ぎても赤ヘルは優勝争いを演じていた。立役者はここぞという場面で必ず打ってくれる、山本浩二さんだった。背番号8は僕にとって神様みたいな存在だった。

医者になるために、試合前の合間にも医学書を紐解き、休みの日には広島大学で細菌学の実験もしていたホプキンスはナインに大きな影響力を持っていた。スイッチヒッターのシェーンは、5月17日の大洋ホエールズ戦で、左右両打席でホームランをかっとばすという離れ業をやってくれた。頼りになる男だった。大下、三村、ホプキンス、山本、シェーンの上位打線は圧倒的だった。

初優勝が目前にせまった9月10日、首位攻防の中日戦、広島市民球場で球史を揺るがす大事件が起こった。中日の先発、星野仙一投手(1947-2018)が6回までに3個の死球をだして、広島ファンはカリカリしていた。8回終わって2-5で負けていた。それでも9回裏に2点返して4-5、1点差に詰め寄った。ツーアウト、二塁ランナーに三村敏之さん(1948-2009)がいた。打席には山本浩二さん。悪くても同点打、願わくは逆転サヨナラホームラン。ファンの期待はいやがうえにも高まった。

中日は抑えの鈴木孝政投手(1954- )。快速球が武器の若武者。山本浩二さんは鈴木さんの速球を執念でセンター前に弾き返した。スタートを切っていた三村さんは三塁を蹴り、猛然と本塁へヘッドスライディング。センターからの好返球を捕手は勢いに任せて突っ込んでくる三村さんにタッチ。意図せずキャッチャーミットは三村さんの顔面を殴打。判定はアウト。激高した三村さんが捕手に掴みかかり、両軍ベンチから選手が一斉に飛び出す。掴み合い、もみ合い、大混乱。ゲームセットが宣告され、選手はベンチに引き上げた。

ところが、試合終了直後に、スタンドから興奮した200人の広島ファンがグラウンドへなだれこんだ。広島選手の制止もきかず、中日の選手たちに殴りかかった。前代未聞の大騒乱だった。ホプキンスはシェーンと協力して、ベンチ裏から中日の選手たちを避難させたが、結局、中日の選手10人が、広島ファンに殴られて負傷した。広島カープにとっては弁解しようのない事件になった。

球団の通報を受けて中日の選手、関係者の安全を守るため、警察100名と機動隊100名が出動し、球場正面入り口周辺にたむろする広島ファン2000人を排除した。翌日の試合は中止になった。事態を収拾したあと開かれた記者会見で、沈痛な表情の重松球団代表は、深々と頭をさげたあと、

「選手達は頑張っているのに」

と言ったきり絶句し、マイクの前で男泣きに泣いた。僕は見ていられなかった。重松さんが、球団のために日々献身的に働いていたのは広く知られていたから、その無念さが痛いほど伝わって来た。たぶん、暴走したファンも、重松代表の真摯な姿に心打たれたのだろう。以後、市民球場でファンの騒乱は起こらなくなった。

ただ、広島ファンは柄が悪いという世評は定着してしまった。誹りを受けても仕方なかった。カープを偏愛するあまり、公正さを欠き、感情に流され、幼稚で愚かでみっともない愚行をしてしまったのだから。この事件を経て、ファンもやっと成長した。広島カープも一つの公器であり、熱烈に愛しているからといって、社会的ルールを破ってよいわけではないことを学んだ。小学生でも知っているようなあたりまえのことをやっと身につけた。

山本浩二さんは、最終戦まで中日ドラゴンズの井上選手と首位打者を争い、打率319、9毛差で獲得した。

後楽園球場で優勝を決めた日のことは忘れられない。平日のデーゲームだった。急いで帰宅すれば試合の終盤はテレビで見られそうだった。坂道を立ち漕ぎで突っ走ったのを覚えている。息を切らしながら自宅の居間に転がり込むように入り、テレビをつけるとホプキンスがスリーランを打った。試合の趨勢は決まった。三塁コーチャーズボックスにいた古葉さんが、飛び上がって喜んだのが印象的だった。もうそのあたりから、涙が溢れ出てやまず、鼻水もずるずるで止まらず、幼児のように泣いていた。テレビ画面の間近に迫り、テレビを両手で抱えていた。最後のバッターがレフトフライだったこと、マウンドには金城基泰(1952- )さんがいたことは覚えているが、目の前で起こっている現実がどうにも信じられなかった。たかぶってハイテンションのままボーっと中継に釘付けになっていた。夢にまで見た優勝だった。

翌日、僕のいた1年3組の教室の後ろの黒板は、絵の上手なショウちゃんによって、カープナインの似顔絵と優勝コメントで埋め尽くされた。優勝に号泣する山本浩二さんのイラストはあらためて涙を誘った。知的なホプキンス、野性的なシェーンもよく描けていた。一番受けたのは、外木場さんだった。「僕が大事なときに長いこと休みましたからね、迷惑かけました」というコメントは、外木場さんの実直な性格をよく物語っていた。「選手たちは本当によく頑張った」と言って号泣する重松球団代表の姿はとりわけ感動を誘った。

ショーちゃんのとぼけた味のあるユーモアは、カープ初優勝の喜びを余すところなく表現していた。

日本シリーズは阪急ブレーブスにボコボコにされた。阪急の抑え、山口高志投手(1950- )は赤子の手を捻るように、カープの選手をキリキリ舞いさせた。山口選手のとんでもなく速い球を誰も打てなかった。カープは6戦4敗2分けで惨敗だった。

日本シリーズの結果はくやしかったけれど、長嶋巨人が最下位で、広島カープが首位で終わったペナントレースの結果は、僕に勇気と困難にも挑戦する心意気を授けてくれた。万年最下位でセ・リーグのお荷物と揶揄されていた地方弱小貧乏球団が、球界の盟主を気取る都会の金万球団を完膚なきまでに叩きのめしたのだ。痛快極まりないことと言ったらなかった。田舎の高校で何のとりえもない普通の高校生でいる苛立ちに、日々苛まれていた心の渇きが少し癒されたように感じた。

僕は何の取柄もなく、自信のかけらもなかった。そのくせ感受性だけはいびつに鋭く、不安定極まりない精神状態だった。めんどうくさい高校生だった。視野狭窄で理屈っぽく、傲慢だった。優しい人々に支えられ、どうにか自滅せずに済んでいた。友だちにはとんでもなく迷惑をかけていた。本当に感謝しかない、あらためて、ありがとうと言いたい。

Once Upon a Time in Innoshima 3

1975年6月のある日、体育の授業前、更衣室で着替えていると、モウちゃんがなぜか体を寄せてきて、

「みせたいものがあるんじゃけど」

と、呟く。唇の端に何かたくらんでいる笑いが浮かんでいる。

「なに?」

と、僕は怪訝そうに尋ねた。

彼はくるっと向こう向きになると、すばやく上半身裸になり、ズボンを脱いだ。なんと、真っ白い褌をしめていた。

「ぷっ」

僕は吹き出した。褌で学校に来る奴がいる!僕の理解を越えていた。何考えてんだ。驚きはまだ続く。モウちゃんがゆっくりとこちらを向くと、褌の前垂れには「貴ノ花」とマジックで黒々と書かれている。

「ぷっははぁ」

僕は涙を流して笑った。3月場所で初優勝した大関貴ノ花は人気絶頂だった。モウちゃんがファンでもおかしくない。しかし、褌を作って、学校に締めて来るか。サッカーのキャプテン・マークとはわけがちがう。僕は言葉を失い、凍り付いた笑顔を顔に貼りつけて茫然と立っていた。

モウちゃんがまじめくさった口調で話し始めた。

「この前、この褌しめて家の近くの銭湯へ行って、この格好で鏡の前に立ったんよ」

大胆不敵な行動に内心ますます驚いた。が、頷きながら黙って聞いた。

「鏡でポージングを研究しよったら、変なジジイが横に来て、じっと見るんよ」

そりゃ、来るよ、とは思ったが、顔には出さず、黙って頷いた。

「無視しとったら、おらんくなった」

その爺さんがモウちゃんを異星人を見るように眺めていた様子を想像して、僕はまた吹き出した。モウちゃんはとにかく謎めいた楽しい少年だった。羞恥心のありようが僕とずれているように感じた。中学の同質性の高い同級生とは異なる、高校生になってはじめて出会うこの異質な友人は僕をとことん魅了した。

それまで15年間、あたりまえのように身につけてきた価値観が大きく揺さぶられ、硬い殻のようにこびりついた古い錆が剝ぎ取られ、体の中を風が吹き抜けてゆくような爽快感があった。中学校で感じていた閉塞感が消えてゆき、自縛していた鎖が音を立ててはずれていった。何とも言えない解放感が心を軽くした。

そのころのことだ。数学の授業で、指名され次回までに解いてくるようある問題を指示された。教師は、

「ヒントを言うと、因数定理を使うと解けます」

と謎めいたことを言った

「はあ、因数定理?なんじゃそりゃ」

と、思った。家に帰って、机に座って、教科書を読み、例題を解き、何か糸口になるものはないか、考えた。例によって教科書の説明はシンプル過ぎて、あてられた問題にどう応用すればいいのか、さっぱりみえてこなかった。行き詰った時の癖で、椅子の上で膝を抱え、ブツブツひとり言を言っていた。そのとき、不意にひらめいた。

「カタチがなんか例題と似ているなぁ。こっちのカッコのなかの式が0になれば、Qは何であろうとかまわない。そうか、それでxの値が決まるんだ。へぇー、これが因数定理かぁ。うまいこと考えたなあ」

数時間考え続けて、やっと解けた喜びが全身を貫いた。じっとしていられなくなった。誰かに話したくてたまらなくなった。ノートと教科書をひっつかんで、家を飛び出した。幼馴染の畏友キョウちゃんの家まで全力疾走5分。玄関の引き戸を勝手に開け、階段をかけあがり、キョウちゃんの部屋に飛び込んだ。勉強していたキョウちゃんに

「おい、聞け。数学の問題を解いたんだ。たぶん、あってる。因数定理だ、カッコいい問題だ。感動するぞ」

藪から棒に、迷惑千万な行動をとった僕を、いつものように嫌な顔一つせずキョウちゃんは淡々と迎え入れ、話を聞いてくれた。説明し終わって、僕は興奮が少し静まった。

「おもしろそうじゃん。これ貸して」

キョウちゃんの本棚から1冊文庫をとって僕は帰宅した。セシル・スコット・フォレスターのホーンブロワーシリーズ「士官候補生」は、その後、僕がホーンブロワーにはまるきっかけになった。

高校という新しい世界が、僕をのびのびと羽ばたかせてくれていた。周りの友人たちには申し訳なく思う。破天荒な行動でずいぶん迷惑をかけた。当時の能天気な僕は僕自身を振り返ることもしなかったけれど。許してほしい。若さが愚かさの別名で、自分が全く見えていなかった。いや、今なら老いが愚かさの別名で、自分が見えていないのに見えているかのように振る舞う分だけ始末が悪いといわれるかもしれないが。

Once Upon a Time in Innoshima 2

1971年、小学6年生になってからサッカーの練習をちょくちょく休むようになった。表向きは脚の成長痛がひどく、思うように走れないことを理由にしていた。実際はサボりたかっただけだ。自分の才能のなさに絶望していた。劣等感の塊だった。

サッカーを続けるか、やめるか、ぐずぐずはっきりしない僕に業を煮やした母は方針を変えた。僕に中学受験をさせることにした。青天の霹靂だった。毎週日曜日、連絡船に乗って、尾道まで塾に通うなんて、とんでもない、と思った。毎週試験を受けるだけときかされ、しぶしぶ同意した。サッカーのみじめさよりはましだと思った。尾道という地名には冒険の匂いもした。心の片隅でちょっとワクワクしながらその日を待った。

日曜の朝6時に起こされた。眠かった。緊張しながら、朝ごはんを食べた。桟橋までゆっくり15分歩いた。待つほどもなく、小さな連絡船が岬をまわってやってきた。7時、乗船。乗客は5,6人。いくつか港に寄りつつ、8時に尾道に着いた。桟橋から、試験会場までは小学生の列が続く。20分ほど歩いた。五階建てのビルの3階のワンフロア。200人くらいの小学6年生がいた。

初めて参加した日曜日、広島から来た塾の偉い人が話をした。痩身、隙のない身だしなみ、威圧感のある早口でこういった。

「いいですか、受験は競争です。競争するからには勝たなければなりません。遠くの学校にターゲットを見つけて、そいつに勝ちなさい。それがダメなら、近くの学校にターゲットを見つけて勝ちなさい。それもダメなら、隣りに座っている人に勝ちなさい」

そこまで聞いて、嫌あな気持ちになった。人間不信をあおられているような気分だった。

「この空間は、何か邪悪な空気で満たされとる。ぜんぜんわくわくせん」

生じた不快感はずっと澱の様に心の底によどんだ。

毎週、何の準備もせずに試験を受けるだけの僕の成績が上がるはずもなく、無残な試験結果に、母も僕の中学受験を無益な投資と判断した。3か月ほどで僕の尾道通いも強制終了となった。

副次効果もあった。帰りの船を待つ間、商店街の本屋に立ち寄れた。因島の本屋より広くて、きれいで、本が多い。グラビア雑誌の放つ強いインクの匂いに僕は魅了された。因島にはない、都会の、文化の香りだった。未知の「知の世界」がそこにはあった。島の外には、果てしない大きな世界があり、尾道がその入口だと思った。それは、僕が勝手に作り上げた幻想にすぎなかった。しかし、狭い因島の外の世界をはっきり意識するきっかけになった。

1974年、僕は中学3年生だった。サッカーのワールド・カップ西ドイツ大会があった。何と言っても、話題の中心人物はオランダのヨハン・クライフだった。トータル・フットボールのもと、11人防御、10人攻撃の戦術でピッチ上を駆け巡った。決勝戦でこのオランダを破ったのが、皇帝ベッケン・バウアー率いる西ドイツだった。龍虎相討つ、スーパープレーヤー同士が世界一を賭けて戦ったドラマチックな戦いは、サッカー劣等生の心も熱くした。ただ、残念なことに共に語れる友人がいなかった。僕の中学にサッカー部はなかったし、スポーツ少年団も消えてなくなっていた。

サッカーは、僕の周りから、どんどん遠のいていた。高校に入って状況が少しかわった。

隣り町の中学からやって来たモウちゃんという小柄な少年がいた。プロテニスプレイヤーのジミー・コナーズに似ていた。バスケットが上手だった。フリースローをやれば百発百中、フェイントが悪魔的に巧みで、柔らかく上体をひねって、するりとマンマークをはずす。すばしっこくてゴール下の混戦をいとも易々と突破する。敵にまわしたくないプレーヤーだった。飄々として愛嬌があった。笑顔に魅せられて、入学後すぐに彼と仲良くなった。

体育の時間は、サッカーの試合が多かった。その日もサッカーだった。モウちゃんは、体操服に着替えると、やおら鞄の中から黄色の腕章をとりだし、右腕に巻いた。その右腕を突き出しながら、僕にきいた。

「わかる?」

モウちゃんが、こらえきれない笑いを全力で堪えながら言った。。

「わからん。なに?」

僕は、モウちゃんの悪戯っぽく、くるくる動く目をみながら尋ねた。

「クライフ、オランダの」

僕の表情を探るように、モウちゃんは答えた。

「ああ、ワールドカップ、オランダのキャプテン。それ、キャプテンマークかぁ。作ったん?」

「昨日、ウエスギ行って端切れとマジックテープ買って、縫うたんじゃけど、どがな?」

「よう出来とる。たいしたもんじゃのぉ」

僕は素直に感心した。満足そうに頷きながら、モウちゃんが悔しそうに語った。

「決勝戦、惜しかったのぉ。先制点とった時はオランダが優勝じゃ思うたけどのぉ。ゲルマン魂に、ベッケン・バウアーにやられた。わし、クライフに勝たせたかった」

モウちゃんのクライフを語る言葉には崇敬があった。モウちゃんの回想はとまらなかった。いつしかサッカー好きが輪になってモウちゃんを取り囲んだ。

1975年、1年遅れのワールド・カップだった。

僕はそうした雰囲気がすごく心地よかった。

「高校の空気は僕を自由にする」と思った。

 

Once Upon a Time in Innoshima

1970年、僕は平凡な小学5年生だった。日曜日はスポーツ少年団でサッカーをしていた。別にサッカーが好きだったわけではなかった。たまたまなりゆきで始めたにすぎなかった。4年生から、6年生までの小学生でチームをつくっていた。僕はそこそこ足が速く、持久力があったので、右のウインガーだった。しかし、悲しいくらい下手だった。1対1で勝った試しがなかった。相手の裏を取る機敏な動きだしもできなかった。救いがたいほど、チームのお荷物だった。誰も口にしなかったけれど、僕には分かっていた。小学校5年の1年間で、練習も含めて30試合ぐらい試合に出たけれど、ゴールを決めたことはない。アシストがうまくいったこともない。スルーパスが通ったこともない。根本的に僕にはサッカーセンスがなかった。やればやるだけ、みじめになった。

他のチームには、素晴らしく華麗なプレーをする少年たちがいた。隣り町のチームには双子の兄弟がいた。ふたりともずば抜けた運動神経の持ち主だった。弟の方がコーナーキックを蹴る。ゴール前にいた兄の方が、僕の目の前でジャンプする。ドンピシャのタイミングだった。見たこともない力感溢れる跳躍、ジャストミートする体幹の強さ、何もかもレベルが違った。矢のようなヘディングシュートがゴールに突き刺さった。唖然とした。次元が違った。

別の町のチームには長身で丸坊主のストライカーがいた。ペナルティエリアの外から、僕の目の前でミドルシュートを打った。低弾道のすごい勢いのボールがゴールネットを揺らした。仲間の祝福にクールに応える姿はとても小学生にはみえなかった。どうしようもなく悲しかった。身近なところにも才能豊かな子どもたちがゴロゴロいた。

双子の兄も長身の丸坊主も、3年後、因島高校で同級生になった。双子の兄は1年生からサッカー部のセンターフォワードに抜擢された。長身のストライカーは野球部のエースになった。二人とも仲の良い友人になった。しかし、小学校時代のサッカー談義をした覚えはない。過去を振り返る年頃ではなかったから。ひょっとすると彼らは僕と対戦したことなど知らなかったかもしれない。

「ごんぎつね」

 

“権狐”(1932)を読みなおした。

きっかけは、僕の知らない事実にあった。僕が57年前に小学校4年生で読んだ“ごんぎつね”は、新見南吉(1913-1943)の草稿に鈴木三重吉が三十数か所手を加えて、『赤い鳥』に発表した言わば鈴木三重吉版で、南吉が18歳で書きあげたオリジナル版ではなかった。

もともと“ごんぎつね”を和解と共生の物語に変える方法はないかと考えていた。ごんが火縄銃で撃ち殺されるラストシーンが好きではなかったからだ。

「ごんを殺す必要はなかろうがぁ」

と子ども心に思っていた。ごんの悪戯に抱く兵十の怒りも分かるし、ごんの行為が誤解されたのも仕方ない、でも、もっと明るい別の話が進められると思っていた。新見南吉の峻烈な態度に共感できずにいた。

転機はネットで見つけた朝日小学生新聞の記事にあった。

「ストーリィには、悲哀がなくてはならない。悲哀は愛に変わる」 

新見南吉が15歳のころに日記に書いた言葉だそうだ。かなり早熟な少年だ。幼くして母が亡くなり、父の再婚で継母に育てられたことも関係しているのかもしれない。断片的な記述だけでは推し量り難い。しかし、「悲哀」の一語に“ごんぎつね”の全てが集約されている。物語の骨格を決定づけている。

ささいな誤解がすれ違いを生み、痛ましい悲劇に至る。老人には人の世の日常的なありようも、子どもは受け入れがたいか。南吉オリジナル版では、道徳的な贖罪意識が強調されない分だけ、悲劇性は増す。でも、とりかえしのつかない喪失感を突き付けられて、子どもはより深く考える。いや、考えないか。わからない。新見南吉は天才だった。僕たち凡人には道徳臭ぷんぷんの三重吉版がお似合いか。

いずれにせよ、結末はかえられない。ごんは死んだ。しかし、ごんが死ぬことで兵十は愛を知る。物語は悲劇的に幕を閉じ、読者の心に終わることのない世界を残す。