蹴球世界杯独逸大会の情報が

 テレビ番組で氾濫・洪水をおこしていて、とりわけオーストラリア・チームの選手の紹介・戦力の分析が繰り返し各局で行われている。真珠湾を奇襲して太平洋戦争を始めるわけでもあるまいに、皇国の興廃がこの一戦にかかっているんだろうか。だいたい、楽しみたい修学旅行前に、やたらと名所旧跡を調べさせる課題を出されているようでうんざりだ。平均身長、平均体重、中心選手、要注意選手、監督の人柄、どこの局でも、真剣な表情で解説をしてくれる。日本人って、こんなにサッカーチームの分析が好きだったかしら、と思うほど、どの番組も感情過多、入れ込みすぎにみえる。視聴者が情報を仕入れれば仕入れるほど、まるで勝つ確率が高くなるかのような錯角を抱かせる。
 やっと、わかった、僕が気に入らないわけが。
 サッカーを楽しむために、と言いつつ、意味のない情報合戦に終始するTV局のあり方が、受験生本人よりも、受験情報にやたら詳しい保護者を連想させるのだ。受験生のため、と言いつつ、本人不在で自己目的的に受験情報の収集を趣味的におこない、学校の無責任なランク付けや評価をする人々。時折訪れる受験関係の掲示板にあふれる独善的かつ排他的な意見の応酬と、敵対的で感情的な表現の横溢は、いつ読んでも辟易する。僕もそのお先棒を担いで、喇叭を吹き、銅鑼を鳴らしているのかと思うと、気分が沈む。
 そういうわけで、ひょっとするとサッカーボールすら触ったことのないような人々が、「ジーコ・ジャパンはこの選手に要注意です」とか、公共の電波を使って発言するいやらしさが耐えられない。やめてくれよぉ、と思う。
 そして、どうせ二ヶ月もしたら、サッカーの話題など誰も口にしなくなり、自民党総裁選の帰趨に関心が移っているだろう。日本人の熱しやすく冷めやすい、無節操極まりない刹那的な国民性を、今さらどうこういったって始まらない。それはそれでよい、とすら思う。誰にもかけがえのない一瞬はあってよい。お祭りは、お祭りとして盛り上がり、蕩尽しつくせばよい。僕は、そんな狂想曲の聞こえてこないところで、静かにワールド・カップを楽しみたい、と思う。