工事 1

塾の工事がはじまった。 

103号室と102号室を完全に分離し、01教室と05教室の間を仕切るガラスを撤去した。102号室から退去し、LECは103号室だけになる。外の電飾看板を取り外し、102号室から、机、椅子を撤去した。近日中に残った本棚と書籍類が消える。

カレンダーひとつにも、もろもろの干渉が渦巻く。いちいち取り合っていると気が萎える。それなりに気遣いを見せる妻のやさしさが無性に腹立たしい。傲慢で性根が歪んでいるから妻には苦労をかける。

いかにもドライに「あっ、それ、ゴミ。それもいらない」と、エンドレステープのように繰り返す。鉄壁の鎧を身に纏い、片づけを進める。隠しおおせない感情のゆらぎがそれでもこぼれだすのは仕方あるまい。64歳になっても心が枯れていない証だと嘯くか。

 

WEBで塾をやる、授業動画の配信をする、という枠組みはあるが、中身(コンテンツ)がない。病院を3か月前に退院するときは、「楽しみでしかたありません。もう成功することしか考えられません」と根拠もなく大口をたたいていた。羞恥心をリハビリ室のベッドの上に置いてきたらしい。右半身の筋肉の強張りをほぐすときに、人として失ってはならない冷静な判断力をすっかり失ってしまったにちがいない。

 

この滑舌の悪さはどうだ。言語のリハビリはそれなりに熱心に取り組んだ、にもかかわらず、聞くに堪えない。退院後、視聴したWEBの動画で、無節操に娑婆り散らすどなたと比較しても、お喋りそのものが、下手過ぎる。勢いがない。スピードにかける。聞くものを巻き込んでいく熱量がたりない。滑舌以前の段階で淘汰されるだろう。

 考えろ。

 目の不自由な子が耳を頼りに理解を勧めようとして、心地よく楽しく理解できる授業ができるのか。

 耳の不自由な子がパッと見て思考の流れに乗れる図表を提供できるのか。

 ゆっくり考えゆっくり考察することで、知識を紡ぐ子らに安心感を与えられる授業テンポをつくりだしているのか。

 考えろ。

 誰でもできるようなことは、誰かに任せておけばいい。

 僕にしかできないことを僕はしよう。

 それが何か、考えるために、僕はこうしてここにいるのだと思う。