退院しました。 3

 退院して、とにかく歩く距離が激減した。無理もない。狭い家で、どんなに頑張っても一度に歩ける距離は5,6メートルが限界だ。往復しても10~12メートル。自宅にいると、どんどん退化していく。生活するうえで、煩わしい規則はほとんど無く、ほぼ自由だ。ゆえに、人は堕落する。

 「転倒しませんでしたか」週に2度外来リハビリでお会いする理学療法士に必ず聞かれる。入院中の前科を考えれば当然の質問だ。悪運強く、まだ転んでいない。しかし、歩く距離が短くなっただけで、転倒の危険性が低下しているわけではない。残念だが、歩いている本人が一番よく知っている。

 ならば、歩けばよいではないか。かつて、ロシア革命前、獄中に囚われていたトロツキーは、体力の衰えを防ぐために、狭い独房の中で、自ら定めた日課(歩行、腕立て伏せ、腹筋等々)を鉄の意志でやり抜いた。革命勃発から内戦期、共産主義者たちの軍事的指導者としてトロツキーは獅子奮迅の活躍をした。オデッサで生まれ育ち、ロシア人というより、ウクライナ人だったトロツキーは、社交的で明朗な人柄だった。陰湿で猜疑心の強いスターリンと馬が合うはずもない。

 話がそれた。右半身不随だろうと、トロツキーなら、何かをしでかしただろう。「左手一本、左足一本動けば何でもできる、ガハハハ」と、僕の娘は笑う。全盲で車椅子の教授、全盲で耳の不自由な教授、そういう方はいっぱいいらっしゃる、と、東大の先端研でお世話になった先生方の話を楽しそうにする。

 克己心のかたまりのような方々を仰ぎ見る。

 僕に何ができるのだろう。