遂に、昨日の

 ブログは手がつかなかった。パソコンの画面は開きっぱなしになっていても、ブログは遥か極地にあって、ショートカットキィをクリックすることはなかった。
 昨日の昼休みも、きょうの昼休みも、ほんのわずかな時間を見つけて、仮眠している。食事のあと、朦朧とした状態になって、ざわつく子どもらの声が子守唄に化け、静かに意識が重いベールの下に沈んでいった。
 時折、突発的な嬌声や喚声が聞こえてきて、僕の意識を揺さぶり、自覚が生じ、責任が意識され、たいがい、「ヤバイ」と言いつつ、授業に向かう。
 そして、まったく同じように、午後8時45分になると、脳が空回りし始め、迷妄状態に陥り、数Ⅱの解説がダッチロールする。論理エンジンがオーバーヒートし、目の前にあるグラフと式の意味が、完全に木っ端微塵に粉砕され、呆然と立ち尽くす、見かねた生徒がひとこと何か言うと、意識が覚醒し、ああそうだったね、と、取り繕う。このラスト五分の惑乱は、塾屋の寿命を確実に縮める。
 
 例の、「ラ・マンチャの男」のDVDを見ないといいつつ、見ている。日本語吹き替え、英文字幕スーパーにして初めて、その難解なセリフの修辞と隠喩が見えてきた。これは、ひょっとして凄い名作か(あたりまえの話で、古典中の古典である)、と、認識を新たにしている。
 そうなると、原典にあたらねばなるまい、と思って、注文を出したら、なんだか前編三冊、後編三冊の、嫌になるくらい分厚い構成ではないか、読みきるには一年くらいかかりそう。30代を過ぎてから、長編小説を気合と意欲で読み通すなんて真似はできなくなって、最初から手を出さなくなっているけれど、2006年は、ドン・キホーテの年であった、と刻印されるのも悪くない気がして、配送を待っている。

 考えてみれば、「源氏物語」だって読み通したことはないし、「白鯨」だってガキのときに挫折した気がする。タイトルは知っていても、あらすじはイメージできていても、読んだことのない古典のなんと多いこと。ちょっと淋しい気分がする。人類が共有するべき偉大な英知に触れぬまま、この世から退場するのは、人として哀しい生き方のような気がする。
 「そんなものは必要ない、普遍的な真理なんぞ犬に食わせろ、今、必要な知識と技術が日々の暮らしを向上させるのだ」という意見もあるだろう、否定するつもりはない。それは、個人の価値観の問題であろう。

 自宅には、風呂に入って仮眠して、その日の授業の準備をするために帰るだけの日々、いや、ゴミを出すのも大切な仕事か。平均睡眠時間が五時間を切っている。まさに体力勝負になってきた。

 走り負けるわけにはいかない。
 豊富な運動量で常に圧倒的にゲームメイクしなければ!