実は先日、残暑にあえぎながら、

 広島に所用があって出かけた。待ち時間を利用して、県立美術館で「藤田嗣治展」を観てきた。夏期講習会をやっているときから「行きたいよぉ」と思い入れをこめていたので、行く前から気分は高ぶっていた。そんな思いはひさしぶりのことだった。
 今から25、6年くらい前、藤田の特集をTV番組で見る機会があった。戦前、パリで大成功を収めた画家が、戦時中、軍部に協力し戦争画を描いたため、戦後、戦争責任を追及され日本を去った、という概略を知った。何よりも、彼が描いた戦争画が、皮肉にもあまりに戦争の本質を描き出した作品であったため、戦意昂揚効果よりも厭戦気分を惹き起こしかねないと判断されて一般公開されなかった、という事実に衝撃を受けた(記憶に頼った記述で、間違いがあったら指摘してください)。藤田の絵を観たい!と思った。高田馬場の居酒屋で無礼千万に声高に青二才が芸術を論じていた頃の話。
 だから、今回、実は「乳白色の肌」や「猫」はどうでもよかった。裸婦にも自画像にも興味がなかった。ところが、実際に目にすると、その素晴らしく美しい線描に圧倒されてうなってしまった。おおぉぉぉ。なんと、なんと、へぇーと素朴に感嘆しながら回廊を進んだ。
 そして、戦争絵画の一角。
 観た。震えた。絵を観て初めて息を呑み、熱いものがこみ上げてきた。
 広島の原子爆弾投下を描いた絵画を観て感動したことはなかった。心を揺さぶられることはあったけれど、「観て知っておかなければならない」という義務感が根底にあって、正直言って、観なくてすむものなら観たくないというのが本音にあった。今もある。好き好んで悲惨な情景、凄絶な光景を描いた絵画を観たい人はいないだろう。
 戦争を知らない世代がこんなことを言うとおこがましいけれど、本物の戦争が藤田の絵にはあった。どうしようもなく悲劇的で、愚劣な、しかし人間的な感動があった。政治的プロパガンダとは無縁の人間の魂が描かれていた。
 軍部が一般公開をためらった理由はよくわかる。誰も藤田の絵を観て、戦争を賛美しようとはしないだろう。誰しも思わず手を合わせ、合掌し、深く瞑目し、心静かに祈るだろう。「サイパン島同胞臣節を全うす」を観た人間が、太平洋戦争を肯定するとは思えない。
 しかし、あの絵は私には耐えられない、という人がいても当然だと思う。あまりにも重く、あまりに深いから。しかし、絶望的な状況にあっても尚、澄んだ瞳で遠くをみつめる少年の横顔に、未来への希望をよみとり、深く印象にとどめることは間違ってはいないだろう。群像ひとりひとりの慟哭と絶望に耳を傾け、観るものを凝視する兵士の姿と対峙しなければならないとしても。
 後半生の、子どもの絵は、現代アニメにつながるバーチャルな造形だと思った。漫画家の大友克洋やポップアートの村上隆を重ねて観る人がいても不思議じゃない、と思った。
 実に、久しぶりに、内容の濃い、忘れられない絵画展だった。。
 でも、LECの子どもたちに観に行ってみたら、とはちょっと言えない。毒が強すぎるような気がする。止める気はしないけれど、どうかなぁ。