昨日の小4

 漢字検定の結果を返却。7級でひとり失敗。すでに6級の準備に入っていたので、次回の検定では、6級と7級の同時受験を課すことにした。しかし、問題はむしろ6級に合格者が一名も出なかったことか。焦るべきではなかった。もっとじっくり構えて、準備に時間をかけて一発合格を狙うべきだったように思う。意味のない失敗を負わせるべきではなかった、僕の判断ミスです。
 算数は面積。長方形の組み合わせを、分けて考えたり、全体からいらないところを引いたりして考える問題。畑に道を作って、残りの面積を考える程度の初歩的な問題なんだけれど、彼ら彼女らの思考の浅いこと。整合性を見きわまる辛抱強さに欠け、思いつきで式をたてて計算に走ってしまう。
 とりわけ、○○式のドリル演習で培われた反射的反応を見せる子は、なかなかはまり込んだ隘路から抜け出せない。正解にたどりつくまでのノートをひとりひとり見ていると、小学校低学年から、下手に大量のドリル演習で硬直化した計算処理トレーニングを受け、脳に縛りを受けている子より、まっさらの状態で、ウキウキしながらパズルを解くような楽しみを味わっている子の方が素直に解いていった。
 東北大の川島教授によれば、単純な計算処理が頭脳の活性化には最も効果的ってことだけれど、無駄に活性化してしまうと、沈思黙考すべき瞬間にも猥雑に計算操作を繰り返す習性を植えつけられるんじゃないでしょうか。だから「百マス計算」も、机についてじっとしていることが根本的に苦手な子らには有効な学習法かもしれないけれど、もっと抽象的な思考を育てる必要のある子らには有害なんじゃないか。確かに計算が速く確実にできるようになれば、さまざまな面で有利になることは確かだし、算数・数学の得意な子は例外なく計算が上手であることは間違いないけれど、彼ら彼女らが算数・数学の学力を伸ばしていったのは、20数年教えてきた経験から言って、抽象的なルールを合理的に理解する論理的・数理的思考力だった。パターン化された定量計算ではなかったように思う。
 見ていて惚れ惚れするような一直線のひらめきをみせ、まったく無駄のない美しい式で正解を出すごく少数の子らと、大多数の、落ち着いて深く考えるスイッチを入れられず、できないことを訴え、ヒントを求めて右往左往する子らに、たぶん、小学校4年ぐらいから分化していくのだろう。塾屋がもっとも持てる力を提供できるのは、後者の子らに違いない。前者の子らは、ほっておいてもできるようになる。時たまちょこっとヘルプして、あとはなるべく邪魔をしなければ、いくらでもホイホイ成長する。大多数の子らには、くじけない心、楽しむ余裕、焦らない勇気、解ける喜び、色々教える必要がある。
 それぞれに教える楽しみがあって、その深みにはまって塾屋をやっているようなものだけれど、その子の資質にあった学習法を提供できているかどうか、いつだって検証が必要だ。自戒していても、不毛な学習は、目に見えないほこりのようにたまっていく。せっせと掃除して取り除いていかなければ、たちまちとんでもないことになる。去年うまくいったやり方が、今年もうまくいくとは限らない。だからこそ、毎年、新鮮で飽きずにやっていられるのだろうけれど。