小6は

 時事問題特集と面接リハーサル。
「”安倍晋三”必出だよう、漢字で書けるようにしといてね等々」
 面接は、志望理由だの、中学校に入ってから頑張りたいことだの、定番の質問で小手調べをしようとしたところ、たまたまモニターになった三人の男の子が、みんな「オクテ」の子たちで、首をかしげてキョトンとするか、言葉が絡んでつっかえるか、もうめちゃくちゃ。あまりの稚拙な反応に唖然としてしまったけれど、初っ端から、あざとくペラペラやられるのも気持ち悪い話だから、まぁ、いいか、と鷹揚に受け止めた。
 市立中の入試までにぼちぼち仕上げればよい。もし仮に、茫洋とした反応が彼らの個性なら、それまでのことだ。その個性を肯定的に評価される学校へ行くべきだ。学校側に否定的に捉えられるなら、その学校には行くべきではない。入学試験の面接で、学校側の求める望ましい受験生を演じるのは簡単なことかもしれないけれど、六年間、それを演じ続けるには相当タフな精神と、DNA並にねじれた性格をしていなければならない。
 そういう「ねじれ」自体を楽しめる人格なら話は別だけれど、彼らはそうではない。「ねじれ」を楽しめる子どもらではない。ありのままの彼らを好意的に受け止めてくれる学校に行くのが彼らの健全な学校生活の始まりになるであろう。
 ノウハウばかりが強調されて、要領よくやることばかりが求められる「効率至上主義」のもつ有用性を否定するつもりはないけれど、子どもはサイボーグでもロボットでもない。意のままに操ってよいわけはないし、そんなことはできないし、許されるはずもない。合格することがあらゆる指導を正当化するわけではない。
 演じることを楽しめる子は演じればよい。演じることが不得手で、演じられない子はありのままにふるまえばよい。ちゃんとした教師なら、その子の良さは間違いなく見抜いてくれる。ちゃんとした教師がいないなら、その学校にはいかなくてよい。それだけのことだ。