中1の英語・単語テスト・復習と努力・子どもとのつきあい方

 対英検モードから、ノーマルな授業に戻ったので、細かく点検しながら演習をすすめた。きょうの課題は複数形。すると、ボロボロ、ミスの出ること出ること。腹をくくって、基礎基本から説明した。話題の中心が複数形になると、be動詞、代名詞、冠詞、他の名詞と、変化が波及していく概念図を横に、一文ずつ解説を加えていった。
 そもそも授業冒頭の単語テストで、17名中、3名しか合格できなかったところで、落雷!「何やってんだ」。曜日や月、といった必須単語ばかりなのに、まったく準備ができていない。期末試験の範囲になっているのは間違いないないのに、このぬるい姿勢はなんだぁ。と、プチ切れ。
 数学も、嫌な予感がして、一次方程式の文章題に突入するのを控えて、一次式の計算と一次方程式の解法の違いをあらためて確認する作業をおこなったうえで、小テスト演習にはいったのに、結果は無茶苦茶。たった今、目の前でやってみせた、係数を整数になおすことすらできないで、グチャグチャやっている。計算能力を高める以前の、みっともない状態に唖然。
 点数を申告する端からなで斬り状態になって、即、間違いなおしに全員とりかかった。習ったことがこれほど定着することなく失念されてしまうのも珍しい、と、思いつつ、いや、例年通りであって、毎年、三歩前進二歩後退があたりまえであったことを思い出した。少数の出来る生徒ばかり見ていたら、たぶん、気づかないまま先に進んでいたろう。いつ、どこで、どこまでUターンして、どれだけ復習しなければならないか、できない子どもたちのノートをみていれば、一目瞭然だ。

 子どもらに向かって、「復習しろ、努力不足だ」と言うのは簡単だ。しかし、子どもが実行するのはたいへん難しい。いつ、何を、どのように復習したらよいのか、やってみせたうえで、やらせていかないと、ふつうの子どもは、言われただけでは何もしないし、カタチだけはやっても、内容がともなわないことが多い。だから、受験指導において、間違いなおしをいかに徹底させるか、が重要課題になるという意見に異を唱える人は少ないはずだ。。
 努力もそうだ。遊びたい気持ち、のんびりしたい気持ちをねじ伏せて、与えられた課題を必要にして十分なレベルまでやり抜くタフな精神力は、そんなにたやすく手に入らない。
 強力な動機付けが成功してはじめて、子どもは努力することをおぼえていく。生まれつき、目的達成型のメンタリティを熱くもっていて、水準以上に負けず嫌いの気質をもつ子なら、ほっておいてもやってくることでも、生まれつきのんびりしていて、競争心が稀薄な子は、頑張りぬくためのきまりをわかりやすく作っておく必要が生じる。そして、ほめられる快感がやがて努力する快感にかわるような成功体験がどうしても必要になる。そして、最も重要なことは、その過程を逸脱を許すことなくあたたかく見守り、励まし続けるには、それなりに工夫が必要だ、ということだ。

 市内のある名だたる進学校の話。英語のテストで不合格になると、膨大な量の英文を書いて提出しなければならない。よくある間違いなおしだ。そこで、英語の苦手なある生徒がボールペンを二本くっつけて、一度に二文ずつ書ける新兵器を開発したそうな。思わず笑ってしまう。ノートの行間隔にあわせて精巧に作られたボールペン、大人なら商品化を考えるかもしれないけれど、彼の発明品は無償で友人に貸与され、感謝されることもあるとか。
 また、こういう話もある。別の中高一貫校では、毎日三ページ、必ず何か英単語をかいて提出しなければならない。ものぐさな少年が例によってその課題を忘れてしまった。彼は玉砕覚悟で、教師の前に出て、右手でノートのあるページの右隅をしっかり押さえて、左手でノートを素早くパラパラめくって、確認印を奪取した。彼が右手で押さえていた部分には、前回の確認印が押されていた、、、、

 現在進行形の実話である。どちらも明らかに、逸脱した努力の例であろう。真摯に愚直に取り組まなければならない事柄を、茶化して相対化してしまうことは、健全な批評精神をうむことなく、安易な自己正当化に結びつき、現実逃避の端緒になるだけであろう。なぜなら、子どもが力強く成長し、たくましく育つのは、現実と正面対峙し、困難な課題を乗り越えたときであるから。
 臆することなく正々堂々現実に立ち向かわせるには、その子の魂に触れる言葉と働きかけがなければならない。親、教師、塾屋、誰であろうと、子どもに関わる大人がどれだけ豊穣な言葉を所有し、どれだけ心を前向きに向かわせる働きかけができるか、日々問われている。
 弱い子どもたちほど、一方的断罪、一方通行の批判は効果がない。彼らが求めているのは、とっつきやすく、逸脱する余地のない具体的な方法(すぐにはじめられて、手間がかからないこと)であり、くじけず持続できる実践(誰かに見守られ、声をかけられ、終わりまで見届けてもらうこと)であり、露骨な成功報酬(よくやったね、というほめ言葉)であるから。
 タフな子どもには、どれも過干渉にしかならない働きかけも、必要とする子には惜しみなく注ぐ必要がある。たぶん、たくさんの子どもとつきあっていくということは、その差異をひとりひとり正しく見極めていく、ということだろう。容易ではない、しかし経験があれば困難でもない。子どもとちゃんとした会話をしていれば自然にみえてくる。

 午後7:10授業終了後、延々と再テストがくりかえされ、9:45.居残り14人のうち、まだ、4人の生徒が残っている。さて、どうしたものやら。
 結局、あと3人、のところでタイム・アップ。粘れるだけ粘ったが、何事にも限界はある。また、機会を作ってとりくもう。