実は自宅のリビングで

ブログを自宅で書くのは2回目、めったにあることではない。

ブログに投稿があった。携帯で知った。返事を書かなければ、と思った。

パソコンを立ち上げ、関連する自分の文章を点検した。「学校説明会」のカテゴリー内にある記事を読んでいると、意外に時間がかかった。その文章を書いたときの記憶が読みがえり、いちいち立ち止まって湧き上がる想念に身を任せたためだ。塾屋として書いた文章と「娘」の父親として書いた文章が中途半端に織り込まれているところで時間が停止した。認めたくはないが、感傷的な気分がブレーキをかけた、二度ほど。

投稿の話題は「金光学園」と「いまどきの子どもたち」。
今年度、村上は誠之館を除いて学校説明会に参加していない。昨年あたりから出席率が落ちた。意欲が萎えてしまった。老化のせいか、情報収集義務を怠るようになった。索敵を軽視して大敗したミッドウェーの南雲艦隊を批判できない。

いや、わざわざ学校説明会に出席しなくても、私立学校の方から担当の先生方が来られて必要な資料はいただける。ちょっとしたお話も伺える。近大福山のO先生や、岡山中学のT先生のお話は面白かった。ただ、組織を評価するにはトップリーダーを評価すればよい、学校長の評価は学校の評価に一致する、と村上が考えてきたのであれば、どんなに忙しくても学校説明会に出向き、学校長のお話を伺って来るべできであった。

あの先生のお話を聞きたい!と思って、学校説明会に出向いたことも昔はあった。いつしか学校説明会への出席が塾屋の義務にまつわる倫理観の問題になってしまった。

どうしても知りたいこと、分からないことがあったら学校説明会に行っただろう。LECの塾生を通して学校の雰囲気がだいたいつかめることも、村上の足を遠のかせた一因であろう。どの学校にも満遍なく生徒は在籍していて、生徒・保護者を通して学校の様子は伝わってくる。だから、好奇心も探究心も刺激されない、意欲が落ちる所以である。

いやいや、ただたんに面倒なだけか、怠け者のいい訳か、おそらく、どの会場に行ってもお姿を拝見していた同業他社のあの方々は、皆勤を続けていらっしゃるに違いない。

投稿された方(yさん)の金光学園に対する感想は、何も付け足す必要もないし、何を削る必要もない。保護者としての節度をわきまえたすこぶる的確な批評となっている。金光学園の一面を正しく伝えている、と村上には思われる。
また、けなげなにお子さまを暖かく見守ろうとされている覚悟がよく伝わってくる。良識ある保護者が金光学園をどうみているか、学園関係者をはじめとして、受験を考えている保護者には、本当に貴重なご意見となっている。

「いまどきの子ども」に対するご意見も説得力がある。

やる気がみえない、すぐにあきらめる、そうしたネガティブな面をもった子どもが多いのは確かだ。しかし、どの子もその子なりにやる気を示したり、しぶとくあきらめない態度を持ち続ける面がある。好きなことには夢中になる。おもしろいと本人が思ったことはとことんやり続けるものだ。ただし、それが現実逃避に陥らず、現実社会にきちんと回路を開けるように親が手配してやるべき部分はあるだろう。子どもなりに状況に主体的にかかわっているようなら、親はあまり心配する必要はない。

面倒なことから逃げたい、のは大人も同じだ。努力しても結果が出なければあきらめたくもなる。上手に成功報酬を設定して自分を鼓舞し、苦手なことにも果敢に挑戦するには、自分自身に対して、ちょっぴり自信とプライドが必要だ。
子どもが自信とプライドをもてるかどうかは親の影響が大きい。幼児期から、その子の長所を認め、ほめて自信を与えていれば、おのずとプライドは育つ。プライドは克己心を生み、集中力を鍛える。親の望んだようにはならないかもしれないが、じっくり待っていれば、子はいずれなるべきものになる、親が邪魔をしなければ。

親がそれを受け入れられるどうか、親の器量が試されることはあるだろう。村上が親として常々恐れているのはその一点だ。鏡に向かって問う、本当におまえにその度量があるのか、と。

親が変わらなければ子は変わらない、とよく言われる。たぶん、そのとおりなのだ。そのとおりなのだが、娘のために、自分を変えようと思ったことはない。傲慢な父親だったことを申し訳なく思う。「もっとカッコよくしてよ」と言われても、「ふん」と相手にして来なかった。気にもしなかった、と言えばうそになるが、土台無理なことは無理だ、と言ってきたように思う。

「あの子の人生ですから」と達観された言葉をお持ちになっている保護者の方々のお子さんは、おしなべて主体的な生き方を上手にされているように思う。もちろん、塾屋風情の伺いしることのできない、摩擦や軋轢があっただろうと思う。しかし、好きなことを好きにやらせてやりたい、という原理原則が親の側にぶれずにあれば、過保護にも放任にもおちいらず、適正な距離を保って、親は親なりに、子は子なりに成長していくものではないだろうか。村上はそうはかなく願いつつやってきたように思う。

以上、yさまへの返信として。