刻一刻と、、、、

明日は私立中学入試のひとつめ。まったく何の心配も不安もない。
「受けた、解いた、受かった」で終わるであろう。それだけの学習を彼女はしてきたし、それだけの結果を出してきた。緊張するのは避けられないが、今後の糧になる体験に必ずなるであろう。何事にも全力を尽くすまじめな性格ゆえ、アドバイスらしいアドバイスもしなかった。合格鉛筆を二本渡した。たぶん、それで十分だ。

講習中というのに(いやそれだからこそか)、ケン・フォレットの「大聖堂」を就寝直前、あるいは起床直後に一日数ページずつ読み進めている。今、二部全六冊の四巻目。

ちょうど第一部の最後あたり、壮麗な大聖堂が完成するくだりを読んでいたころ、大阪城ホールのドリカムのコンサートに行った。

場内を埋め尽くす熱狂的なファンがステージ上の吉田美和さんと一体となって盛り上がっていくさまを、Dブロックの18列17番の席からひとり見下ろしていた。妻と娘はCブロックの方にいた。
村上の隣は、村上より少し歳上らしい小洒落た髭をたくわえた紳士、隣はおそらく大学生の青年。髭紳士はビートにのりつつも立って踊ることはしなかった。青年は初めから終わりまで立って踊って歌っていた。他の大多数の人々と同様に心ゆくまで2010年の最後のライブを楽しんでいるようだった。
村上は髭紳士に習い、礼儀正しく手拍子はとりつつも、ずっと座っていた。

吉田さんと中村さんは誠心誠意パフォーマンスを続け、見るものを飽きさせない。熱烈なファンのひとたちは、さながら吉田さんの期待にこたえるがごとく、見事に調和した動きをみせる。いごこちのよい相互感応状態のるつぼの中にあるのは、共有された親和感、宗教的な魂の充足感だった。

ああこれが大聖堂か-と、突然思った。修道士たちのかわりにバンドがいる。讃美歌の代わりにアルバムの曲がある。歌詞は聖書の言葉にひとしく、吉田さんの歌声にのれば、それは耳にするものの人生を根本から律する力をもつ。見ず知らずの人々が吉田さんの歌とパフォーマンスによって総べられ、癒され、勇気づけられ、一体化していく。

佐藤史生の名作「夢見る惑星」にでてくる踊り子さながらに、吉田さんが”ドリカム”の結界をはった領域内にいれば、数十万人の人間を意のままにあやつることができる。シャーマンの実演を心地よくあじわっていた。

最後の最後にエディット・ピアフの「愛の賛歌」をアカペラで楽しませてもらった。しんと静まりかえった大聖堂に響く超越的存在の神々しい歌声。ディーバの名にふさわしい圧倒的な歌唱力に頭を垂れ、矮小な雑念をすべて浄化され、罪を許され、蘇生する感動を与えられた。

50歳を過ぎたコンサートの楽しみ方が、すぐれて宗教的なものになるというつもりはさらさらない。ただ、読んでいた本とライブがシンクロして、不思議な体験をした、というお話。緊迫してくると、入試に関係のないい話をしたくなってしまうということで、、、