そういえば

 年賀状をいただいた方々、きょう返事を出しました。遅くなってすみませんでした。昨年は、ろくに返事も出さずにすみませんでした。今年は心を入れ替えて、ちゃんと出しました。しかし、来年はどうなるかわかりません。その年の心理状態に激しく左右されることはなはだしいので、なんともいえません。返事がなかったら、愚かな村上がまたへこんで沈んでいじけている、とお考えくださいまし。

 きょう成人式を迎えられたみなさん!
 このとんでもない社会へようこそ。
 この社会は決してやさしくもなければ、希望に満ち溢れたところでもありません。冷酷で、簡単に絶望できる仕組みがいたるところに罠をはっています。
 しかし、それは、みなさんが冷たく残忍になってよい理由にはならないし、絶望してよい根拠にもなりません。みなさんがきょうの成人式を迎えられたのは、数多くの人々の、とりわけ家族の支えがあったからに他なりません。もちろん、みんながみんな人間関係に恵まれてきたわけではないでしょう。辛く痛ましい体験をしてきた人も中にはいることでしょう。にもかかわらず、この世に生を受け、生きてきたということの本質的な意味を考えれば、成人式を迎えた人間として、まず、精神的にも物理的にも周りの人々に感謝の念を抱くべきであると、僕は考えます。そして、人に優しく、希望をもって生きるべきだと申し上げたい。
 ただし問題はその次。希望が、未来に対する洞察力を鍛えるわけではありません。心優しい若者が、実は、自分の未来に対して恐ろしく無頓着であることはよくあることです。漠然とした希望はあっても、何者になるべきか定見を持てず、何をしたいか認識できず、あるべき情熱を見失い、じつに不毛な日々を送っている例は枚挙に暇がありません。
 年長者としてアドバイスできることは、どんな小さなことでもよい、したいことを即刻遠慮しないでやってみろ、ということに尽きます。僕はよく、親のすねをかじれるうちはとことんかじれ、いずれ順番でかじられるときがくる、と教え子たちに言います。小さくお行儀よくまとまらなくてよろしい、無節操に、わがままに、とことんやってみたいことをやってみなはれ。たった一回の人生です。他の誰でもない、自分の人生です。やりたいことをとことんやるべきです。あとで後悔する時間はたっぷりあります。やり直す機会もたくさんあります。どう生きようと、すべて何もかも思い出になります。とことんやっていれば、必ず壁につきあたります。壁を越えるには、努力と工夫が必要になります。精進と学習といってもよいかもしれません。地に足のついた向上心をもつことができれば、この人生は楽しくなります。達成感が必ず大きな自信を生み、成長の契機となります。あとは野となれ山となれ。それからは、人それぞれに美意識にしたがって自分の人生をできるだけ美しく生きていけばよろしい。
 もちろん、他人を巻き込むときは慎重にやってください。家族が甚大な迷惑をこうむるようなことは、できれば避けて通ったほうがよろしい。了解のもとにやるのならかまいません。責任のとれないこともやってはいけません。あくまで自己の責任において、やりたいことをとことん追及するべきだ、というのは常識でしょう。
 常識というのは曲者です。人によって違います。その微妙な差異を十分わきまえることができるようになれば、立派な成人といえるかもしれません。20歳そこそこでそれをわきまえるなんて無理な話です。常識だと信じていることが、実はとんでもなく非常識であったり、許されない、と思っていたことが、実は可能であったり、まぁ、この世を渡るのはたいへんです。たくさん失敗することでしょう。仕方ありません。人生のアマチュアがいきなりプロフェッショナルな行動はとれません。しかし、アマチュアであるからこそ挑戦できる事柄がたくさんあります。挑戦権のあるうちに挑戦するべきです。
 だから、やりたいことは即刻遠慮なくやるべきだ、と申し上げたい。社会の一員としての自覚はそのうち、いやでもあと20年ぐらいすれば育つはずです。自覚は自覚したときに持てばよろしい。自覚もないのに、自覚したふりをするくらいなら、自覚していないことを徹頭徹尾自覚しておいたほうが、よっぽど害がありません、自分にも他者にも。
 思慮分別もいずれ身につきます。指一本失うほどの激痛を伴う経験を通して身につけるか、穏やかに素晴らしい出会いの中で身につけるか、それは、みなさん次第です。よき出会いに恵まれることを祈ります。人生を学ぶにたる先輩はそれほど多くはありませんが、かならず皆さんの周りにもいらっしゃいます。どうか上手に見つけて、上手に教えを乞い、成熟した判断力と研ぎ澄まされた洞察力がどれほど人生を豊かにするか学んでください。
 このとんでもない社会へようこそ。
 素晴らしい人生を歩まれんことを。