思いはすべてこの胸のうちに

附属中入試に危うく遅刻するところだった。
顛末は昨夜から始まる。

昨夜、零時前、疲れきり、帰宅するなり、すりきれた消しゴムのようにソファに横になった、例によって頭痛と喉頭痛と悪寒で仮死迷妄状態。呼吸する粗大ごみ。動く気力もなかった。そこへ風呂上りの娘がやってきた。せっかく入試の終わった日なんだから、と、ありったけの元気を振り絞って広大附属福山高校の入試問題の感想を聞いた。
 すると、スイッチ・オン。
 突然、集中豪雨、堰を切ったように喋り始める。数学の問題に失望したこと。なんのために延々とやってきたのか、裏切られた思いになったこと、もう附属に対するこだわりが消えたこと。進学先をあらためたいこと。想定外の話題、速すぎる展開。
 「ちょっとぉ、待てよぉ、親の器量が試されてるぞぅ」
 重低音の旋律がしわぶきながら聞こえ始め、
 「正面対峙、いい加減なことはいえないぞ」
 と思うものの、すでに攻めこまれ、自陣深くスクラムでグイグイ押されている感じ。
 根性を決めて起き上がり、インスタント「ゆず湯」を熱湯で飲みながら態勢を立て直す。体があたたまり、喋っているうちに気分はよくなってきた。しかし、ことの重大さが次第に大きく心をしめつける。「ゆず湯」をお代わり。
 端から僕の結論にブレはない、100%一直線の支援、それ以外にない。
 しかし、解決するべき現実的課題がフラッシュ・バックを繰り返す。
 また「ゆず湯」をお代わり。喋る。笑う。同意する。また「ゆず湯」をお代わり。喋る。笑う。同意する。惰性で「ゆず湯」をお代わり。喋る。笑う。同意する。
 時刻は午前二時をまわる。喋りつかれ、結論を不動のものにした娘がにこにこしながら二階にあがる。喋り、笑い、気力を回復し、予想もしなかった課題をかかえて僕は寝た。

 翌朝の付属中の激励を寝過ごしてはならない。床に就く前、一瞬不安がよぎる。目覚ましをもうひとつセットしようか、いや、大丈夫。絶対寝過ごすはずがない。金輪際、絶対寝過ごすはずはない。どんなことがあっても目覚める。そのことを疑う気にはならなかった。
 
 そして、予定通り目覚めた。出発前、昨夜の話が家人も交えて確認される。そうそうに出発。ここでそのまま行けばよかった。ハローズによって、生徒にカイロを買っていこうと思ったのが運のツキ。売り場でウロウロ8分ほど時間を浪費した。8:00ちょうどに出れば、なにも問題はなかっただろう。
 182号線の流れはいまひとつ。昨日ほどよくない。オートバックスで右折。車の流れがピタッと止まる。胃の辺りが重くなる。二号線から回生病院横の迂回路をとるべきだったか。あとの祭り。
 ジリジリしながら渋滞に沈む。8:21。まだヤマト前。8:23。まだ信号。約束は8:20、すでにオーバー。絶体絶命。やっとグラウンド入り口横、8:25。うわおおぉおぉ!警備員が胸の前で×印、進入禁止。冗談じゃないぜ。顔面蒼白。正門前に突っ込むか。
 道路の右をみる。中華料理屋、散髪屋、散髪屋にあかり!あれだ!右折。無我夢中で駐車場に入る。ドアを開けて店内に飛び込む。たじろぎ、いぶかしむ店主さんに、
「車を置かせてください。あとで髪を切りにもどってきます」
「どういうことですか」
「塾のものなんですけれど、子どもたちと約束してるんです、すみません、8:30入室開始なんです」
 強引に拝み倒して、校内へ。正門前で、保護者にひとり遭遇。「もう、みんな中です!」「すみません」駆け出してまたひとり保護者。「そこにいます」生徒にひとり声をかけカイロを渡す。加速してダッシュしたとたん、ベルトのバックルがはずれる。片手でずり落ちるズボンを引っ張りあげながら、人ごみを掻き分けていく。「どこにいるんだ」と焦る、聞き覚えのある声、「ムラカミせんせーぇ、せんせぇー」「どこだぁ」とキョロキョロするうちに、発見!LECチルドレンと保護者の方々!
 やれやれやれやれやれ、安堵と羞恥心でしどろもどろになりながら、保護者の皆様にご挨拶。ずり落ちていくズボン、裏返る声、動悸、息切れ、メタメタ状態で、失笑を買いながら、カイロを手渡していく。妙に明るい子、妙にさわやかな子、妙に固い子、妙に恥ずかしがる子、妙に普通な子、こっちが動転しているせいか、「いつもどおり、ふだんどおりやれ」と言っても声が上ずり、「先生が、一番キンチョーしてんじゃん」あっさり逆襲される。
 彼らはテントの向こうへ消え、顔を見ていない生徒を三人探す。いない、探す、いない、探す。自動車が気になって移動する。と、「先生!」保護者一名と遭遇。ラッキー、生徒にカイロをわたす。落ち着いたいい顔。
 散髪屋にもどり、「どうもありがとうございました。おかげさまで無事すみました」
 一時間後、散髪がすみ、みょうに頭の外周だけかるくなったものの、芯は重くぼーっとしたまま仕事にもどった。


 午後、休憩時間に、受験した生徒が一名乱入!そして、ぞくぞくと現れて、パワフル・マシンガントーク!!
 「先生、リマン海流でたよ」、昨日、まぁリマン海流はでないでしょう、と言ったのは僕。
 「カマキリ虫って虫をつける?」「つけない」「カタカナで書いていい」「いい」「算数の答案用紙の余白に計算をかいていい?」「いい」などなどなどなど、わいわいがやがや。さわやかな光を目に宿して自転車グループの退場。

 また、次の休憩時間に、二名次々登場。自信と期待と一抹の不安、でも何かをやり遂げたすがすがしい顔。実に愉快に話が弾む。あぁ、このときがこのまま続いてくれたら、と思うほどに。この子らはよい受験をしたなぁ、としみじみ思う。

 メールも一通。はずむような息遣いがつたわってくる文面。ああこの子もよい受験をした。


 2006年度の中学受験が終了いたしました。
 受験生、保護者の皆様、ほんとうにおつかれさまでした。
 幼い心と体で、よく耐え、よく学んでくれた子どもたち、ありがとう。
 きみたちは素敵だ。僕は君たちの塾屋であることを誇りに思う。
 日々言葉に言いつくせぬ思いで、子どもたちを支えてくださった保護者の皆様、
 皆様のご苦労、ご心配、ご期待に報いるにはあまりにも未熟な塾屋でしたが、
 子どもたちも僕も精一杯やりました。どうか、結果をあたたかく見守ってやってください。

 実り豊かな受験勉強であったことを心から祈ります。
 そして、努力の成果が合格の二文字に表現されますように。

 


 
 そして2007年度の中学受験がすでに始まっていることを小5の子どもたちに告知致しました。