逆上がり

 昨日はうちの娘の逆上がり記念日だった。生まれて初めて成功した。体育の時間に、友人たちのやっているのを見て、コツをつかみ、試してみたら、何回目かに成功した、らしい。
 小学校の頃、体育の時間に逆上がりができない、ということで、家の近くの公園に親子三人で出かけ、練習しようとしたことがあった。教育技術法則化運動のカリスマ向山先生の逆上がり指導法を本で読んでいたので試してやろう、という気もあったのだけれど、腕力がぜんぜんない細い腕と、本人に「何とかしたい」という気持ちがなかったことをみてとって、早々と切り上げて帰宅した。「ひとつぐらいできないものがあってもいいよ。なんでもかんでもできなきゃいけないってことはないだろう」と言っておしまいにした。
 この件に関しては、あまりにいい加減ではないか、とその後批判された。困難から逃げることを教えた、とも言われた。できるまで徹底してやるべきだったのに、という正論で迫られると、そうかもしれない、と、ひとまず、思う。でも、たかが鉄棒でしょ、逆上がりでしょ、できなくったって、この子の学校生活に何も支障はないでしょう。それよりもできないことで劣等感を持たずにすむように、できなくてもいいんだ、おかしくないんだ、って言ってやるべきなんじゃないの。今、この子に逆上がりを無理に特訓して何か得るものがあるだろうか。大人の自己満足のために、逆上がりの特訓をするなんて馬鹿げている。この子が、できるようになりたいなら、とことん付き合う。それは誓う。でも、そうじゃない。
 この子は鉄棒以外のことでよく頑張ってる。それでいいんじゃないの。得意なことで頑張っていれば、自分に対する自信は損なわれない、と思うよ。
 ということで、10年近くになるだろうか。いつかできる日が来るとは思わなかっただけに、素直に親子で喜んだ。今でも、できなくてもいい、と思う。だけど、確かに、できるとなぜかうれしい。正直、遣り残していた宿題が片付いた気分。