きょうの授業で

 ひとまず休塾になる中1生が二人。懇談で保護者の方とじっくり考察を重ね、現在考えられるもっとも建設的な選択肢として、休塾を選んだ。
 塾を無原則に継続することがよいわけではないのは当たり前の話。とりわけ中学受験を経て、私立の中高一貫校に通っている場合、塾に過度に依存しないように、慎重にかかわり方を考えなければならないときがある。独裁的な指導力を発揮して子どもを塾漬けにし、ガムシャラに勉強させ、その延長線上で入学後もかわらず指導し続けていると、子どもの主体性を著しく損ない、本来備わっているはずの自発性、自律性を奪うことも弊害としておきやすい。
 多少の試行錯誤はあっても、自分なりの学校生活のあり方を自力で構築し、失敗を恐れず果敢に創意工夫を試す期間はぜひとも必要だ。安楽な方向に逸脱することのないよう、きちんと約束をとりかわし、もし、目に余る成績におちてしまった場合には、即刻復帰するよう念を押して、ふたりに別れを告げた。
 生徒たちの成長に応じて、塾の、つまり、僕のかかわり方も変わる。自立をより強く求めるときもあれば、より強力な指導力を発揮する場合もある。より対話を重ねるときもあれば、問答無用で引っ張るときもある。また、子どもの親離れがすすむときに、同時に塾離れもある程度おきてよい。自立を求める営みは全方位に発揮されてこそほんものであろう。そして、新しい次元で新たな関係性を必要としたら、また、新しい出会いを求めて、塾のドアをノックすればいい。常に、はっきりとした目的をもって塾に通うべきであって、惰性と無自覚な依存にはまった塾通いは意味がない。常にそうした鋭い検証に耐える塾通いであるなら、きっといろいろな意味で価値のある塾通いになるであろう。
 もちろん「将来に対するぼんやりとした不安」が理由であってもよい、と思う。人はそれほど自覚的に生きているわけではないだろうし、ごくごく生活の一部にすぎない塾を、いちいち深く考える必要もない、とも思う。ただ、しかし、節目節目できちんとけじめをつけるときは必要だと思う。今回、懇談がまさにそうした機会として機能し、相互理解のもと、ちゃんとした方向性をもって休塾がまとまったのは、塾屋としてうれしい。それは、子どもの健全な成長に正しくかかわりたいと願っている、塾屋の切ない願いが聞き届けられたひとつの証であるように思うからだ。
 いや、独善的なまとめ方をしていい気になってはいけない。背負うべきリスクは双方にあり、より真剣に考えなければならないことはたくさんある。彼らが乗り越えるべき課題は少なくないし、中高一貫生の指導の仕方を、僕が再考すべき点も数多い。LECで中1生の飛び級は恒常化したが、その選抜の仕方、運営の仕方が十二分に子どもらのニーズに応えているかどうか、考え出したらきりがない。
 
 あたらしい道を歩み始めた二人に幸多かれ。
 がんばるんだぜ。
 
 また、いつか、どこかで、出会う機会があったら、互いの成長を喜び合おう。
 きょうまでありがとう。
 
 GOD BLESS YOU!