ウォークマン@SONYの選曲を

 シャッフルにして驚いた。アルバム単位の曲順で聞きこんで何やら色あせたはずの曲が、思いがけず新鮮な感動とともによみがえる。次に何が流れてくるかわからないドキドキ感が、耳の感度をあげているせいもあるだろうし、前後の曲との脈絡を無視した断絶と偶然うまれる連携が、意外な副次効果をうんで、「おっとぉ、そう来たかぁ」と、思い入れを深くすることもある。
 もちろん、無茶苦茶なことも起きる。本来なら第4楽章のあと、鳴り止まぬ拍手、として余韻に浸るべきトラックが、突然独立して曲と曲との間にはさまると、「???(@_@;)」。パソコンに戻ってそのトラックは削除、ということにもなる。とにかく交響曲の場合は、1楽章1トラックになっているから、ばらばらにされると、何番の何楽章が流れているのか、イントロクイズをやらされている気分になることが多い。
 しかし、それでも、ウォークマンが、たぶん僕の聴いた頻度数をもとにしてつくる曲順は、お気に入りの喫茶店で耳にするBGMのような不思議な安心感と期待感があって、おもしろいことこのうえない。ウォークマンに人格すら感じてしまう。僕がインストールしている全223曲から、100曲を選び出し、さらにその中からランダムにプレイバックしていく作業が、すべて機械的なプログラミングで行われていることは百も承知しているのだけれど、「ミスタウォークマン」と親しく呼びたくなるほど、選曲に「意図」を感じる。
 もちろん、勝手な妄想だ。しかし、車やパソコンに愛称をつけて使っている次元よりも、もっと僕の心に近いところに「彼」は名実ともに存在している。携帯電話を忘れて外出することはあっても、「彼」を忘れることはない。シャツのポケットにあることを必ず確認して出かける。ひとりで行動しているときは、ほぼ間違いなくイヤフォンが耳にある。と言って、依存しているわけでもない。音楽があったら困る場面では、抵抗なく自然とはずしている。なくてもいい、とすら思う。でも、あったらうれしい。
 目下のところ、映画「ムーラン・ルージュ」のサントラを聴くか、シャッフルにするか、どちらかで、使っている。フェイバリット・ハンドレッドに「ムーラン・ルージュ」が入ってしまえば、シャッフルだけになるであろう。
 たぶん、「彼」がいるかぎり、僕はどんなに高血圧でも、脳梗塞にも心筋梗塞にもならないだろう、と勝手に決めている。根拠?いい気分でリラックスしている人間は、脳梗塞にも心筋梗塞にも無縁じゃないかしら(笑)