学力テストとオリンピックのこと

朝から小4・小5・中1が、いっせいに学力テスト開始!小6は、理科の進度調整もあって授業に変更。他に高校生が6名、模擬試験。状況としては、余裕の朝。外は日曜の風景。交通量は少なく、人通りもほとんどない。室内の活況と妙なコントラストがある。ねじれた空間の境界線上にたっているような気分を今朝も感じている。本来なら、塾屋として受験生の放つ熱気の中に没入するべきなのだろうけれど、街路の向こうからLECを眺めてしまうような冷めた感覚が、心の隅に鎌首をもたげている。虚無的な空洞が空いているわけではないのだが、、、

高校生が五月雨式に集合。二列横隊に並ぶ自転車の台数に、アスクルの商品を届けてくれたS急便、おなじみのイタリアーノ氏が驚く。無理もない、ふだんの倍の人数はいるから。

深く大きな雲がゆっくりと北西方向から流れる。風は北より。もうすぐランチタイム。

夜はとっぷりと暮れた。居残りを命じられた中1ギャング・スターズの面々と、高校生の模擬試験受験者が少々、寂寥感を感じる教室である。オリンピックの閉会式も始まったころか。ネット上では、星野ジャパン・バッシングが激しい。気の毒なことだ。うつろいやすい大衆の気まぐれにいいように料理されてしまうことだろう。芸人の悲哀というべきか。

そしてまた、臨時国会が始まって、解散総選挙が話題にのぼるようになれば、北京オリンピックを語る人は誰もいなくなる。感動的なエピソードも屈辱的な結果もすべて忘れ去られて、政権交代と政界再編に耳目が集まり、下品で野蛮な選挙騒ぎが騒々しくこの列島を駆け抜け、不毛な選択を強いられることに耐えうる人々のみが、しぶしぶ投票所に脚を運ぶことになる。

できれば、スポーツを語る熱意で政治を語らず、試合結果に悲憤慷慨する次元で社会を嘆かず、子どもたちの未来に責任をもてるような、よりましな選択ができることを願いたい。

僕は北京オリンピックを十分楽しめた。新聞記事、ネットの記事から、日本の活躍した選手たちが、子どものころからすばらしい英才教育を受け、すさまじい努力を重ねてきたこと、その過程で親の果たす役割の大きいことなどに深い感銘を受けた。とりわけ、体操の内村選手、フェンシングの太田選手、ソフトボールの上野選手たちの紹介された生い立ちと競技に対する姿勢については学ぶことが多かった。確かに、この北京オリンピックは、いろんな演出や試合中の応援スタイルで、中国の国威発揚が鼻についたけれど、やっと国際社会でスポットライトをあびることができるようになった発展途上国が、国民一体となってヒステリーをおこし、熱狂の坩堝に陥るのは自然なことのように思える。経済発展のうみだす格差で分裂しかかっている社会が、オリンピックを契機に一体感をとりもどし、より強力な国民意識を形成し、より開かれた社会に移行する過渡期にあると思えば、非難することなど何もないように思う。いかに一党独裁の国家であっても、かならずその道をたどることは確かであろう。オリンピック以後、中国国民が触れる情報の質と量は、必ず彼らの自己相対化を招き、自己客体化の糸口を創り、中国社会の変容と改革の工程が敷かれる契機になるであろう。かつての日本がそうであったように。

だから、オリンピックは成功だった。いいオリンピックだった。日本のメダルの数が少々減ったからといって何も嘆くにあたらない。メダルの数でははかることのできない感動をいただいたし、考えるヒントも授けられた。ギリシャ人が偉大だったのか、クーベルタンが偉かったのか分からないけれど、4年にいっぺん壮大なスポーツの祭典が行われるのは、人類にとって幸福なことだ思う。お金の無駄遣い、と言ってしまえばそれまでだけれど、敢えて言ってしまえば、とほうもない無駄遣いであるからこそ、人は純粋に感動することもあるのではないか。すべてが必要性によって合理的に動かされる社会に、僕は住みたいとは思わない。

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