受験生になるということ

受験学年になったから受験生になる、ということにはならない。
受験生になる、ということはもっと能動的で動的なものだ。たぶん、妻に子どもが生まれたからといって、すぐに夫が父親になれるわけではない、のと同じだ。重く深い責任を自覚し、日々の行動にそれまでは欠けていた思慮深さや気配りができるようになって初めて、男性は父親になっていく。日々、さまざまな失敗を繰り返し、悔恨と反省を積み重ねながら、人は親になる。(母親は妊娠を自覚した時点で否応なく母親になる、と思う)
そして、非受験生が受験生になるのもまったく似たようなものだ。親が親であることに失敗するように、子どもも受験生であることに失敗することは多い。意味もなく逸脱し、無自覚に振る舞い、貴重な時間を浪費する。子の行動を批判するのは簡単だが、どうして親の行動を批判するのもさほど困難ではない。完璧な子育てなど不可能だし、子育てはすべからく失敗と成功の絶え間ない繰り返しの集積にすぎないから。ある局面で失敗した子育てが別の面では実に効果的であったりする。親が頼りなければ、子はしっかり育つし、親がしっかりしすぎていれば、子は依存心の強い子になる傾向がある。子どもが三人いれば、三者三様であって、どの子にも通じる子育てというものもない。個性にあわせて親が対応を変えていくしかない。かように困難な子育てに、ふつうの人が失敗するのは不可避であろう。それでよいのだ、と思う。成功を願うのは本能だが、失敗を受けれいれ、現実を直視する勇気があれば、よりましな子育ての方法がみえてくるはずだ。
非受験生が受験生になるのもそういうことだ。いや、とにかく、人が何ものかになろうとしたときは、みな同じだ、というべきか。塾屋は塾をはじめたから塾屋になるわけではない。塾屋になろうとする連綿たる企業活動(教育活動と言いたければ言ってもよい)の中で、塾屋に目覚めていくだけの話だ。
冗談じゃない、そんな半端な塾屋なぞ認められない、という立場の人もいるだろう。もっともな意見だ。おそらく程度問題であって、社会的に認知されないレベルの塾屋は早晩淘汰されるであろう。持続的活動(十年ぐらいのスパンで)が可能になるレベルに至っても、欠陥は少なくなく、欠点は隠しようもないことが多い。率直に言って、LECはその代表例だろう。このブログを読めば誰にでもわかる。
彼らが受験生になろうと悪戦苦闘しているとき、僕も塾屋になろうとして悪戦苦闘している、たぶん、そういうことだ。
だから、明日も頑張ろう。