2500枚プリントアウトした

きょう一日でA4版の用紙が2500枚、試験対策用のプリントアウトに消費された。消費量を抑える工夫をしようと思えばできないことはない。プリンターの編集機能を使えば、「左開きの週刊誌」印刷も可能だから、印刷枚数をほぼ四分の一に減らすことも可能だ。しかし、この印刷様式は生徒には不評だった。文字が小さく、レイアウトが息苦しく、やる気が出てこない、のだそうだ。
何を贅沢な、とか、甘えるな、とか、高圧的に押し切っていくのは、大人の論理で、正しいけれど有効とは限らない。限りある資源を考えて、と、省資源を説く方もいらっしゃるだろう。反論はできない。ただ、まっとうな意見を正しく受けいれるには、それなりの成熟と訓練と思慮深さが必要だけれど、必ずしも子どもたちがみんな、その条件を満たしているわけではない。
だから、まぁ、ユーザー・インター・フェイスを考えて、両面印刷すらあきらめて、敢えて単純印刷をすることになる。たぶん、明日はもっとたくさん消費するだろう。

ネットで拾った情報から、「桜ノ雨」をニコニコ動画で初めて聞いた。中学校の卒業式で歌う学校も多いそうな。文部科学省が推薦してもおかしくない健全かつ古風な歌詞、叙情的なメロディー、卒業シーズンに流行するには必要にしてじゅうぶんな要素をそろえている。

僕にしては珍しく熱心に読んでいる中国新聞連載の「かあちゃん」(新聞小説は、一日たつと物語の細部を忘れてしまうので、これまで読み続けられたためしがない。第二に、著者の重松清はあまり肌のあうひとではない。使い回しされ、間延びした気になる表現に出くわすことが多いので、最後まで読みきれないでやめたものがふたつ、みっつ)を、思い出した。たぶん、あの小説の最後は、この歌詞がぴったりあてはまる展開になるにちがいない、と思った。

新聞の連載小説が、お決まりのコード進行で予定調和に落ち着くのはかまわない。朝の連続テレビ小説と同じで、日常生活にちょっとしたスパイスを効かせればよいのだから。僕の勝手な思い込み、よく言えば期待感として、ニコニコ動画と「初音ミク」には、メジャーには取り込まれない、ぞっとするほど斬新で、心臓をわしづかみにして離さない、通俗的な観念をひっぺがえして笑い飛ばすような作品が誕生するのではないか、と思っていた。

この先、そうした突き抜けた作品がでてこないとは、言い切れないけれど、サブカルチャーの宿命で、メジャーに取り込まれ、消費される過程が一般化し、知らず知らず、メジャー志向の作品が主流になり、メジャーに媚びた作品が増えるだろう。オタクの商品化がここでも進む。歴史の法則どおり、周縁に存在する異端のものを吸収することで、中心は蘇生し活力をとりもどす。

なべて資本主義は秩序と安寧の大義名分のもとに、あらゆる分野であらゆるモノ・コト・ヒトの商品化をすすめるのだろう。現在のこの第二次世界恐慌ですら、その勢いを加速することはあっても止めることは絶対ないにちがいない。なぜなら、この恐慌からの脱出する方向そのものが、脱中心であるようにおもえるからだ。

マージナルなものを取り込み、過渡期を乗り越えるうねりを、「桜ノ雨」に感じるのは、妄想だろう。授業も懇談も何もない、ふとできた空隙の時間に、塾屋が考えることといったら、、、という、ろくでもない話。



明日も国立2次試験が続く君!
きょうの結果に拘泥するな、すんじまったことはもういい。
とにかく、明日、自分の一番良いものを出せ!