冬期講習の構想を練りながら@リビング

外は灰色の雲。重い雰囲気の空。先日植えたパンジーが元気に咲いているので少しほっとする。

11月9日、10日はお休み。
私的な用事でちょっと東京へ。
東京にいる間は仕事のことは考えないのか、というと、そんなことはぜんぜんない。

東京と言っても、世田谷区自由が丘の駅周辺をうろうろすることが多い。このあたりは、ホントーに学習塾の多いところ。客観的な統計をとれば明らかになるだろうけれど、大手塾、中堅塾、個人塾とひしめきあっている。

雑誌で「住んでみたい街」の上位に毎年ランクされる自由が丘、整備された街並みに、おいしそうなスイーツの店、瀟洒な雑貨の店が立ち並ぶのをみれば、それも頷ける。休日ともなると、見栄えの良いファッションに身をかためた若い母親たちが大挙して現れ、ベビーカーに着飾ったお人形のような幼児をのせている姿も絵になる、絵になりすぎるほど。

でも、塾屋が歩けば塾の看板にあたる。ふりむいてよい若い女性もいるだろうに。東横線に乗っても、受験バッグを提げた受験生の立ち振る舞いに目がいく。素敵なご婦人も至近距離にいるだろうに。たぶん、職業病。傍らの妻に注意されることも少なくない。「あまりジロジロ見ないで」

困ったことに、それが苦痛でもストレスでもない。新鮮な刺激というわけでもないけれど「よしよし」と思ってしまう。「よしよし、みんな頑張ってるな、俺も頑張るぜ、まぁ、きょうはお休みだけどね」という親爺っぽい上から目線の自己肯定でいい気になってしまう。

娘が高1の夏のときのことだ。早稲田や慶應のオープンスクールを見て回った。合間に宿泊先の大森駅周辺で地元の塾をひとりでいくつか訪れた。「あのーすみません、入塾のことでお話をうかがいたいんですけど」
保護者然として、資料をいただきながら話を聞いた。どの塾でもキレのいい応対、あかるくさわやかなビジネストーク、あかぬけた教室の雰囲気を楽しませてもらった。「なぁるほどねぇ」といたく感心する部分が多かった。「ようやるわぁ」と辟易するところもないわけではなかったけれど、「うーん、みんな頑張ってるなぁ、俺も負けんぞぉ」と単純素朴に煽られて帰ってきた。

何がどう行われているのか実際に見て聞いてきたわけではない。上辺だけの印象をもとに、勝手に気分だけ昂揚させただけの話で、調査でも研究でもない。その後のLECの進化・発展に寄与した点は限りなく0に近い。企業活動とは呼べない。呼べないけれど、「へぇー」と思ったり、「ふぅん」と考えたり、東京にいる間ずっと、LECの日常を反芻しながら比較対象を軸に塾屋思考が常に駆動しつづけた。面白い体験だった。

そして、また、ひょんなことから小さな縁のできた街で、夜遅くまで、塾の教室に明かりが煌々とついている風景を見上げたり、群れになって退室する子どもたちが、おそらく駅まで引率するであろう塾講師に叱られながらはしゃぐ姿を眺めることが楽しみになった。脇を歩く妻や娘はそんな村上に気づいているだろうけれど、何も言わない、呆れているにちがいない。いや、気づかれずにいるか、、、

遠く離れたあの街で、きょうも子どもらは大きな塾バッグを背負い、重い問題集や参考書に辟易しながら、友達同士、つついたりつつかれたりしながら、時には、どついたりどつかれたりしながら、溌剌と勉強しているのかと思うと、わけもなく「よっしゃー」とファイトが湧いてくる。

競っているわけではない。対抗しているわけでもない。敢えて言えば、自分の仕事をただ認めたいだけかもしれない。他の職業と違って、塾屋には自分の仕事に社会的意味を積極的に与えなければならない時がある。無自覚でいられない時がある。東京で村上がたまたま接する光景には、その考える作業に伴う重荷を軽くしてくれるものがある。

本当は何もないのかもしれない。人は見たいものしか見ないし、感じたいものしか感じない。社会的意味など最初から何もなくて、幻想にすぎないのかもしれない。それならそれでもよい。どうであろうと、東京に行けば、必ず、どうしようもなく「おっしゃー」と馬鹿のひとつ覚えのようにひとり盛り上がるのは確実だから。そしてそれはいつだって心地よく、村上を鼓舞してくれるから。これから数か月、どれほど自分を鼓舞してもよい日々が続くのだから。