深夜に本の話(しかも手元にない)

何がきっかけで購入したのか、思い出せない。タイガー・マザー購入して三か月あまり、パソコン周辺の書類の山の中に埋もれていた。ふとした偶然で読み始めたら無茶苦茶面白い。

あっさり言ってしまえば、中国系アメリカ人女性の子育て奮闘記。両親が留学生としてアメリカにやって来て、苦学して大学教授としての地位を築いた。筆者は二世の移民として、中国文化に包まれた家庭で育ちつつ、アメリカ社会に同化し、両親の期待にこたえてハーバードを卒業した。そして、ユダヤ系アメリカ人男性と結婚し、イェール大学の教授になった。それで二人の女の子を育てました、って話なら、並のサクセス・ストーリーで終わるところだが、そうはならない。

随所でくどいほど中国と欧米の文化的差異を説明したうえで(日本人の子育てスタイルは、筆者の定義でいけばすでに欧米系と言ってよい)、欧米系の、子どもの人格・自由を尊重する子育てを痛烈に批判し、中国では当たり前の、親の権威を前面にだした一方的支配と形容すべき、独裁的な子育てを猛烈に実践した逸話がどんどん出てくる。あまりの苛烈さはもはや漫画的で笑ってしまうことすら多々あった。

とにかく、日々、そこまで言うか、そこまでやるか、という場面の連続で、中国系アメリカ人の早熟な天才たち(姉はピアノ、妹はバイオリン、学校の成績もオールA)はこうして作られていくのね、と納得してしまう。
筆者に言わせれば、中国の親は子どもの才能を信じているからこそ、その才能を引き出すために躊躇してはならないのであって、微温的に子どもに接する欧米の親たちは、子どもの才能を伸ばす努力をすることなく、意味もなく甘やかしているにすぎない、と痛烈に罵倒する。

その妥協なき子育ての壮絶なこと、反抗する子どもらをなだめすかし、脅し、ねじ伏せ、押さえつけ、DVすれすれ、いや完璧に虐待としか言えないだろう、と思われるやり方で、従わせてゆく。毎日、長時間の執拗なレッスンを必ず監督し、海外旅行の旅先においてすら一日も休まず練習させ続ける偏執ぶりは、村上のような平凡な日本の父親には鬼女としか映らない。

娘二人が、母親の「献身的な」子育てのおかげで、当然のように成果を出し続け、着実にステップ;アップし、社会的評価を高めていく履歴は脱帽するしかないのだが、そうまでして成り上がらなければならないのか、と思わずにはいられない。カーネギーホールで、たった14歳の少女がピアノのソロリサイタルを開くのは確かにすばらしい。誰にでもできることではない。拍手喝采の感動体験だ。でもねぇ、、、

まだ、読みかけなので、果たして彼女たち親子が、どういうカタチで母子戦争に終止符を打つのか、よくわからない。何やら、ハッピーエンドにはならないような伏線からすると、より従順で忍耐強い姉は、母親の思い描くエリートコースを歩むらしいが、母親そっくりの性格で、ことあるごとに衝突する妹の方は、破綻した結末を迎え、筆者が深く敗北感に浸る、らしい。

思春期以降、子が親に絶対服従することが前提の子育ては間違っている。自我に目覚め、人格的に半ば独立しつつ、なお感情を上手にコントロールできない危険極まりない状態の半人前の少年少女に、高圧的に接することのできる威厳をもった親は少ない。従わせることもできないのに、従わせようとすれば、失敗するのは当たり前だ。
一般には、相互理解と共感にもとづいた連帯感が芽生えてはじめて、親離れ子離れはつつがなく終了し、子育ては完了する。それには親の穏やかな導きとあたたかい見守りが欠かせない。
ところが、日本では受験期がちょうどその過程にかぶることが多いため、話がこじれることが多い。なぜなら、受験で成功する子どもは一握りで、挫折を味わう子どもの方が多く、親の期待がかなえられることは少ないからだ。親が度量を試されるているにもかかわらず、正面から受け止め損ねてしまうと、子は必要以上に反発し、無意味に反抗しつつ、精神的に自立する機会を逸して、半依存状態を脱却できない状態に陥りやすい。

さて、筆者のふたりの娘はどうなるのか、読んでから書評を書けばいいものを、途中までしか読んでいないところで書き始めてしまったので、気になって仕方がない。
ただ、前半あたりまで読んだところで、これだけは言える。筆者が、ふたりの娘のために惜しまずエネルギーを注ぐ姿には教えられることが多い、と。なりふりかまわず、子育てに没入し、夫を従わせ、親類縁者にも遠慮せず、堂々と自分の思った通りに子育てに驀進する生き方は、好き嫌いを超越したところで尊敬に値する。(いや、赤の他人だから尊敬できるだけで、自分の妻だとやってられない、自分の姉でも許せない、叔母さんなら感心して眺める、くらいか。あの娘ふたりはなんだかんだ言っても、母親からとことん愛されていて幸せだと思う)
子どもながら、ピアノやバイオリンを上手に弾きこなす天才少年・天才少女たちの陰には、程度に差はあれ、こうした親が必ずいるのだろう。そして、その親子たちは、時にお互いに深く傷つけ、傷つきあいながら、確かな絆を結んでいくのだろう。
しかし、敢えて言ってしまおう。絆があればいいというものでもないだろう、また、社会的に高い評価をもらったからといって、親から奴隷のように扱われ、蔑まれるくらいなら、親子の絆なんかなくてもいい、と思うだろう。それよりも、人として尊重され、ひとりの人間として自由を認められる方が絶対に大事だと思うだろう。
アメリカ合衆国で、中国系移民という出自がどれだけのハンディを背負うことになるのかわからないけれど、なまじ自分が社会的に成功すると、その出自が「子育て偏執狂」のインセンティブになるのかしら。
中国本土では、「一人っ子政策」の影響で、ずいぶん子育てのスタイルも欧米系になっているような気もするのだが。
ひょっとすると、読了して、もう一度あらためてこの稿の続きを書くかもしれない、、、そんな気がする。