お前は落ち着きがない!

 と、子どものころ、どれほど言われたことだろう。自分ではごく普通にしているつもりでも、相当落ち着きのない子どもだった。貧乏ゆすりはあたりまえ、ノートや教科書は落書きだらけ、思いついたことはすぐに口にする、忘れ物はしょっちゅうする、転んだりぶつかったり、どこかに傷をつくるのは日常茶飯事、村上はそんな子どもだった。

 計算間違いもよくした。しかし、あまり悩んだことはない。自然現象のようなもので、雨も降れば風も吹く、時々計算も間違える、といった感じだった。四つ上の姉の教育には過剰に熱心だった母が、なぜか村上には甘かったおかげか、あまり指摘された記憶がない。小中高と通った学校の先生方からもしつこく指摘をされたことはない。人並み以上にミスは多かったはずだが、不思議と弱点だという意識を植え付けられずにすんだ。自覚したのはむしろ教えるようになってからか(笑) ひどいもんだ。

 今もしょっちゅう忘れ物はするし、落し物は多い。老化もあって短期記憶すら劣化している。スーパーの駐車場で自分がどこに車を停めたのか思い出せないことが増えた。目印を確認し忘れたときは、不審者さながらに駐車場内をさまようことすらある。

 傷も絶えない。さすがに子どものころのように、突発的な行動はしなくなったので、派手に額に生傷をつくるような真似はしなくなったけれど、しょっちゅう足をテーブルにぶつける。ひざから下に打ち身、擦り傷がなくなることはない。かがんで頭をあげた瞬間、体をどかにぶつけることはすでにデフォルト化している。

 結婚25年、こうした愚行の数々を見てきた妻が、基本的にはあきれつつ、微量の憐みも若干こめて「もっとゆっくり動きなさいよ」とあきらめ顔で助言してくれる。しかし、「どうせ言っても無駄でしょうけど」と顔にかいてある。事実そうだから、村上は日々同じような失敗をくりかえす。

 「確認、確認、確認」「点検、点検、点検」と塾屋として算数の小テストではよく口にするけれど、実際のところ一番必要なのは村上かもしれない。

 「定規なんかいらない、定規なしでまっすぐに線を引け」と子どもらにはよく言うけれど、村上自身は子どものころ、派手に歪んだ線を引いて平気な顔をしていたように思う。

 「数字の大きさ、字の大きさをそろえろ、ピシッと書け」とノート作りもうるさいけれど、大小さまざまなふにゃ字を書いていて、「もっとなんとかならんのか」と父親に嫌な顔をされた記憶はある。なんともならんかった(笑)

 片づけこそ大の苦手だった。机の上はいつも瓦礫の山と化していた。試験期間に入ると初日はまず大掃除から始まった。何時間もかけて整理整頓をするとすっかり満足して何も勉強しないまま寝ていた。部屋を「豚小屋」と形容されることに何の抵抗もなかった。その通りだった。ただ、掃除が下手だと思ったことはなかった。なぜなら、どんなに無茶苦茶にひっくりかえっていても、必ずあるべき姿に復元できる自信があった。だから、とことん散らかっていても全然苦にならなかった。そんな自信よりも日々の整理整頓をする習慣の方が100倍も大切であることには思い至らなかった。今も頭ではわかっていても、習慣になっているかと言えば、うーむ、、、

 職場はともかく、家庭内では妻のご機嫌を損ねることは絶対悪と深く認識してからは、共同生活者に不快を与えない程度の整理整頓はできるようになった。恐怖心はどんな怠惰な人間も勤勉にする(笑)

 で、だから、

 毎回、授業中に村上から、「もっと丁寧にやれ」とか「もっと考えてから答えろ」とか言われているみなさん、何も心配することはない。かつて君たちと同じような失敗を山ほどくりかえしてきた村上でもなんとかなっている。怒られるのは面白くないだろうから、言われたことをちょっとだけ気にしてくれていれば、そのうち、怒られなくなる。

 たぶん「ほぉ、やりますね、成長しましたね」と、上から目線で気に入らないかもしれないけれど、ほめてもらえる時もくる。いや、それよりも確実に自分が成長していると自覚できる喜びと達成感を味わえる時がくる。それは信じてよい。なぜなら、先輩たちの多くがそうなってくれたから。

 で、だから、

 怒られてもくさらないのだよ。できなくてもあきらめないのだよ。君たちの誰よりもドジで間抜けだった、いや今も、どうしようもなくドジで間抜けなおっさんでも、なんとかやっているから。毎日、少しだけ賢くなろう、少しだけ進歩しようって思って行動していれば、ある日、ちょっとだけ自信をもてるような時がくるから。それがいつになるかは予言できない。人それぞれだから。でも、必ず来る。そして、それがくりかえされるようになる。そうして、自分は何とかなるんじゃないかって思えるようになる。

 だから、きょうも少しだけ賢くなろう。

 というわけで、アクション!