目覚めたら、リビングのソファ上、午前4:55。
寒いはずだ。
疲労困憊して風呂に入る前に撃沈したらしい。
エスプレッソの苦みで意識がクリアーになった。
ネスプレッソはありがたい。気分だけはフィレンツェのバール。
さて、新年度の案内書の編集。
よせばいいのに、新しいアイデアを採用するかどうか迷っている。
ただ新しいことをやってみたいだけなのか、合理性があるのか、よくわからない。相談する相手もいない。いつものように堂々巡りで作業が進行しない。
こんな時、あまりいい仕事はできない。迷わず、ふんふん鼻歌を歌いながらタイピングしているときが一番いい仕事ができているように思う。
こうして停滞している間に醸成される思念が、やがて濾過され結晶化され、新しい核になってLECの活動をセンスアップしてきた。だから、この停滞感を忌避するべきじゃないことはわかる。
昔は、事務室のデスクトップパソコンの画面を眺めながら、膝を抱え背を丸めうんうんうなっていた。みっともない姿でぶつぶつひとりごとを言いながら、徒手空拳、カタチのないものをカタチにしようと悶えていた。多くの場合、不完全でまとまりのない結果しか得られなかった。そんな自分にうんざりし、あきれ、責め苛むばかりであった。99の不毛な夜を過ごし、100回目の夜にやっと小さな小さなゆるぎない確信を手にすることができた。
毎年、その繰り返しが続いた。
いつの頃からか、少し楽になった。
たぶん、カタチができあがって、根本的な動揺が少なくなったのだろう。無駄にみえる経験もそれなりに繰り返せば、自信を生むということか。すくなくとも開き直りの手口は覚えられたのだろう。プレッシャーから逃げたくなるようなことはなくなった。
今はキッチンのテーブルでノートパソコンの画面を眺めながら、カップを手にしている。
しかし、今年の惑いは新しい。
あのひりひりするような切迫感はない。追い詰められ、逃げ場のない閉塞感に身もだえするような息苦しさはない。と言って、開放感に満ち溢れているわけでもない。むしろ、どこまでいっても果てがない虚無感が強い。どうしてよいかわからず困っているのではない。どうやってもよい、という開き直りが強すぎて、アイデアをもて遊び過ぎ、決断力(そんなものがあればだが)が鈍っている。
何をやったって同じ、とどこかで思っているのか。だから、何をやってもいい、と短絡しているのか、それとも諦念か。
いやいや、老人性の冷笑癖を身につけるにはまだ少し早すぎるだろう。
そもそも物事の本質を躊躇なくシニカルに指摘できるほどの認識力はない。義理と人情に挟み撃ちにされ、言動は常に矛盾を含み、透徹した洞察力を駆使できるゆとりなど1ミリグラムも所有していない。
あらゆる事象をすべからく許容しつつ、一切から自由であって、したがって何もかも容赦なく切り捨てることができるような強さ(解脱っていうのかしらん、仏教的な発想に思える)を求めているわけじゃない。
滑稽きわまりない現実に翻弄され続けることを楽しみたい気持ちはいっぱいある。できれば、いまいましい現実を思い通りにざっくり組み立てなおしたい。そして愚かにも現実に返り討ちにあってしまってもかまわない、とさえ思う。
たぶん、それは、自己破滅願望すれすれの覚悟であって、狂おしい倫理観を伴っていれば、自虐癖に陥らずにすむ、ひとつの生き方にはなるのだろう。そう信じたい。
生き方ではない。
案内書をどうするかだ。
やっぱり、夜明けの仕事ははかどらない。
もう朝のサラダを作る時間になった。
レタス、キュウリ、トマト、ボストンレタス、スピニッチ、スプライト、イチゴ、リンゴ、ナシ、ネーブルオレンジ、バナナ、アーモンド、カッテージチーズ。それにベーコンアンドエッグズ。
不器用な村上が、妻のレシピどおりに二人分作ると45分かかる。ただ切って盛るだけで。
現実はいつもうんざりするほど具体的だ。
だからこそ、達成感もある。
それだけのことか。
現実にもどろう。
サラダを作って、塾に出かけ、きょう入試のある子らの健闘を祈りつつ、授業をしよう。
案内書? そうね、もうちょっと考えよう。何かが降臨してくるまで、鬱々とね。