小さな恋のメロディ

 先日、妻がTVから録画していた「小さな恋のメロディ」を観た。
 よかった。懐かしかった。 
 日本で大ヒットしたのは1971年。村上が小学校6年生の時だった。残念なことに因島の片隅に暮らしていた児童が、そんな映画を観に行けたわけがない。行けたわけがないくせに、ビージーズの「メロディフェア」のサビの部分と、印象的なシーンのいくつかがたいへん鮮明に記憶に刷り込まれている。不思議でも何でもない。旭化成が映画のシーンとサウンドトラックを使ったCMを作り、提供番組の「スター千夜一夜」よりも、そのCMの方を毎週のように村上は「憧れ目線」で見ていたのだから。

 主演のマークレスターが、特別ゲストで「スター千夜一夜」に出演した時のこともよく覚えている。「YES」の発音がことごとく「イヤァ」だった。生きた英会話なぞなにも知らない田舎者の村上少年は「へぇー、なんか生意気だなぁ、こいつぅ」と断定した(苦笑)
 
 あらためて見直して、まぁ、なんと登場人物たちの幼いこと。「おいおいこんなにチビだったかぁ、こいつら」と思わず口にした。

 どうやったら赤ちゃんができるのか不思議で、居間の本棚から平凡社の「国民百科事典」を引っ張り出して調べて、具体的な事実を正確に知って、ひとり驚きうろたえ興奮していた年頃の村上には、ダニエル君もメロディちゃんも立派なお兄さんお姉さんにみえていた。

 しかし、劇中の設定はなんと小学校5年生、10歳!! そりゃないでしょう、と妻とふたりで思わずつっこみつつ、しかし、ジュリエットは14歳でロミオと恋に落ちて結ばれたことを思い起こして、うーむ、ありかもねぇ、と無理やり納得した。

 純情少年の一途な恋に、はじめは頑なだった少女が心を開き、初々しく共感と相互理解を深めていくドキドキ感は、さすがの「冬のソナタ」も色あせる。丁寧な演出は韓流以上で、50過ぎのオッサンさえときめく感動があった。永遠の純情恋愛映画といってよいと思う。

 しかし、そうはいっても、村上にはすでに完璧に親の視座ができあがってしまっているので、恋愛に悩むメロディよりも、彼女をとりまく家族のうろたえぶりに一体感を感じてしまった。「うちの娘にこんなこと言われてたら、どうしようもなかったね」とこぼすと、妻は、「ありえない」と笑っていた。あの食卓のシーンを巡る親子のやりとりに、ふと小津安二郎を感じて、淀川長治さんの「人情に国境はない」を思い出した。(本当のところ、どうなんでしょう、ご存知の方がいらっしゃれば、教えててください)

 トロッコでふたりが向かった先には、たぶん、「素晴らしき新世界」があるのだろうな、と子ども心に夢想して、そこでぷっつん切れていた。(もちろん、A・ハクスリーの作品を小6のガキが知るわけがない、ただ、漠然と、何か今までとは違うあたらしい世界があるように思っていた。そしてそれは、当時の時代的影響を受けて、自由で奔放で貧困や戦争のない世界、というイメージだった)「そして二人は仲良く暮らしました」って思っていたのだろう、と思う。
 今にして思えば、クレジットタイトルの背景にどこまでも伸びていくトラックは、その理想が遥か彼方にあること、そして、今風の言葉をつかえば、「持続的成長が可能な努力」なしには目的地につけないことを示していたのだろう。手押しトロッコなんて実に示唆的だ。

 映画のワンショット、ダニエルが放課後、わんぱく少年と一緒に遠出の冒険に出かけた際、ある映画館で上映されていたのが「パットン」(1970年、邦題は「パットン大戦車軍団」)。実は、村上は家族でこの映画を観にいっていた。今はすでにとりこわされ更地になった日立造船因島会館。

 1970年、小5だった村上が、ミリタリー好きの父親に連れられて、家族一緒に米軍の全面協力で作られた戦争映画を楽しんでいたとき、その映画館の外には、初恋を成就させるために、既成の価値観を正面から打ち破るダニエル君とその悪友がいた、というなんとも皮肉な構図を妄想するという、映画のストーリーと自分の人生をクロスオーバーさせる得難い経験をしてしまった。

 つまり、ダニエルとメロディの物語は、村上の実人生で起こりえたかもしれないけれど、とても悲しいことに(?)起こらなかったできごとだった。いや、とても幸運なことに、というべきか。お伽噺が、実はとてもグロテスクで、どうしようもない悲惨な現実を背景にできあがってきたことを考えれば。そして、ひょっとすると、今の村上は、ダニエルになれなかったどころか、ボコボコにされて逃げ出した教師の側にいるのかもしれない。それが現実というものだ。

 大人になってから、小学生のころに感動した映画をみると、少なからず興ざめすることが多い。しかし、これはそうはならなかった数少ない映画だ。子ども心に芽生えた恋をきちんと描いている名作だと言ってよいと思う。ちょっと村上の少年時代の思い入れがありすぎるかもしれない。今どきの小学生や中学生にしてみれば、お伽噺にすらならないだろう。社会がタイトに成り立ちすぎていて、高度に管理された彼ら、彼女らの心に、このお伽噺を楽しむ余裕すらないかもしれない。

 娘がこの映画を知らずにおおきくなったことを、ちょっとかわいそうに思った。今さら卑怯な言い分で申し訳ないけれど。いい映画だよって教えてやっておくべきだったか。いや、その必要はなかっただろう。彼女は彼女なりに親の知らないところで、もっといっぱい自分の糧になるものをみつけてきたにちがいない。親の思い上がりは慎もう。親が教えなくても、子どもは勝手に何かを見つけ、何を手に入れ、何かを身につけているものだ。そして、それは、たぶん、すべて必要なものなのだ。本人に不必要かもしれないものを、親がわざわざ教えることもなかっただろう。たぶん、彼女も同意するだろう。「ほっといてくれたのがよかった」と。


【きょうの英検対策】

■3級 → 午後2:00-4:00
■準2級→ 午後4:00-6:00
■4級 → 午後5:00-7:00