懇談も大詰めに来て

 昨日は、半分以上の方は、入塾試験の講評にみえられた方々であった。現状の分析と展望、とりまく環境の変化、限られた時間で要領よく語るのはいまだにたいへん難しい。言い足りなかった部分や、偏った言い方になった部分を思い返しては、僕自身の拙劣な伝達能力を嫌悪する。いったい何年、何回やってきたのか、その経験値はどこへ蓄積されているのか、はなはだ疑わしい。もっと上手に語りたい、伝えたい、と素朴に思う。
 今懇談を通じて、年度替りをきっかけに退会される方がお二人いらっしゃる。受験結果の責任の所在を明確にし、力不足を深くお詫び申し上げた。おっしゃられたことは、まことにごもっともなことばかりであった。貴重なご意見だった。今後のLECを正しく導く箴言としてお聞きした。ご縁のあった子どもたちの今後の発展を心静かに祈りたい。
 新しく出会う方々、去り行く方々、希望と悔恨がひとつに織りこめられる春は、塾屋にとっていつも残酷な季節になる。塾屋歴を通して、合格をバックアップできた生徒の数よりも、僕の力不足で落としてしまった生徒の数の方が圧倒的に多い。もしLECにNO.1があるとすれば、それは、第一志望に失敗させた生徒数ではないか、とすら思う。
 誇るべき結果がないわけではないかもしれない、しかし、それ以上に、忘れたくない、忘れられない指導過誤がある。他者からはっきりと指摘されるもの、僕にしか分からないもの、さまざまなバリエーションがあるけれど、フラッシュバックがやむことはない。そもそも、現実的によりましな結果を求めようとすること自体、ひとつの断念の上にたっているのであって、そうした現実的な折り合いのつけ方ひとつひとつに忍び込む欺瞞性を正直にとりあげていけば、塾屋はおそらく発狂するであろう。
 にもかかわらず、狂うこともなく毎年のように失敗を重ねながら、僕は塾屋を続けている。わずかばかりの自己満足と、もったいないほどの信頼と励ましのおかげで、続けられている。ありがたい、としか、言いようがない。