朝から英語検定試験

 午前中は、準2級と4級。4級の二人は何も心配していない。問題は準2級に果敢にチャレンジした中学三年生たち。昨日も各自それなりに準備をしていたので、その努力が報われることを祈りたいが、マグレで合格するよりは、不合格になったほうが、夏休みに目標ができていいけどなぁ、と、ドライに思ってしまう。そんなぁ受験料がもったいないじゃないですかって、反論されそうだけれど、身につける知識や技能、まとめて言えば学力は、お金で換算できるものじゃない。目の前のたかだか数千円と、自在な英文読解力、聴解力を身につけることと、どっちが貴重か比べるまでもない。
 昔、福山に引っ越してきてLECをはじめて数年の頃、ある保護者から「先生、そんなに勉強させてどうするんですか」と面とむかって言われて絶句した覚えがある。すでに塾屋生活も十年になろうとしていたけれど、わが耳を疑った。
 子どもは、どれほど勉強させてもいい、とことん勉強して無限の可能性を広げて欲しい、と単純に考えていたので、「そんなに勉強させなくたってかまわない」という親の態度が理解できなかった。猛特訓をやっていたわけではない、スパルタ式の授業をしていたわけでもない、たんたんと、あたりまえのことをやらせていたに過ぎない。また、何か他に子どもが打ち込むものがあって、時間とエネルギーのバランスをとるのが難しい、というわけでもなかった。ごくふつうの、暇な時間のたくさんある子で、ほっておけば無為に時間をつぶすことはわかりきっていた。にも関わらず、子どもに、ほどほど以上のことを期待していないことが、不思議で仕方なかった。
 少なくとも、僕はそういう育てられ方をしなかった。常に能力の向上を求められ、常に最善の結果を出すように要求されて育ってきた。それは時に疎ましく重荷になったけれど、僕のような怠け者は、親から期待されていなければ、確実に勉強しなかったであろう。それは素直に認めたい。今となっては感謝する気持ちの方が強い。当時は、敵だ、と思っていたけれど。
 また、塾屋として出会ってきたそれまでの保護者の方々は、そうした僕自身の体験を裏打ちするような発想で子どもに接していた。子どもの中に眠る才能をいかに引き出し、開花させるか、そのために何をどう行うべきか、誠実に模索され、悩み苦しみつつも現実的な制約の中で、精一杯、親としての義務を果たそうとする方々ばかりであった。だから、常に塾屋として期待に応えるべく、研鑽に励んでいたつもりだった。
 当時は、苦笑いして、それはそうなんですけどぉ、と、適当にお茶を濁しながら、高校入試に絶対はありませんから、、、と言って、深く思弁をめぐらすわけでもなく、また、はぐらかしたわけでもなく、こちらのスタイルを受け入れていただいた。なんとなく場の雰囲気だけで受け入れていただいたように思う。受験指導に問題は生じなかった。勢いと熱意でいろいろな取り組みをしたけれど、特別感謝もされなければ、特別非難もされず、その子は無事志望校に合格し、やがて、塾を去った。
 今なら、三十分以上語り続けるかもしれない。子どもは勉強しなければならない。なぜなら、、、、、、
あさましくも愚かしくも熱弁をふるってしまいそうな自分がいる。スイッチが入ってしまいそうな予感がある。子どもにどういう接し方をしようとそれは親の勝手とは思わなくなった。子どもが無意識に求めている愛情や励ましに無自覚な親であってはいけない、と、はっきり思うようになった。たぶん、親稼業を何がしか経験した分だけ、強気にものが言えるようになったのだろう。
 いや、いっそう傲慢になっただけか。何が分かったわけでもない。日々、迷いつつ、うろたえつつ親の仮面をかぶって、親らしくふるまっているにすぎないのだから。

 きょう英検を受験した生徒の合格を祈ります。やっぱり、不合格になるより合格するほうが嬉しいに決まっている。

 画像は、大友克洋の傑作コミック「アキラ」そっくりの雲。残念だけどあれ以上大きくはなならなかったの。ブワブワと膨れ続けたら最高だったのにね。