T's Story

東京にいる娘から、あまり生徒の個人情報を書き込むな、と助言された。ふうむ、気をつけているけどなぁ、と言ってはみたものの、もともと悪乗りするタチなので、知らず知らず書き込みすぎているかもしれない。過去に外部の読者から指摘されてブログの記述を削除したことは一回だけある。たぶん、村上の知らないところにまだたくさん削除するべき個所があるのだろう。これから書こうとすることが、ひょっとして削除対象になる可能性も否定できないのだが、さて、どうなるか。

昨日、東大理科一類に合格したT君のことだ。
「長かったなぁ」と、昨日挨拶に来てくれた彼に話しかけると「はい、9年になります」。
2002年3月に、入塾試験で初めて会ったときのことを印象深く覚えている。小4のクラスを開いて1年目だった。入塾試験を手作りした。ちょっとレベルの高いものを作ったように思う。公立小の小3には未習事項も含まれていた。早々と問題を解き終わったので、すぐにその場で採点した。「へぇー、これよく解いたねぇ」と語りかけると「まだ習っていなかったんですけれど自分で考えました」とニコニコしながら答えた。『頭のいい子だなぁ』と内心感嘆しつつ、「それって大切ね」とこたえた。
算数がすばらしくよくできた。字は汚かったけれど、漢字もよく身につけた。附属中受験には何の心配もなかった。ところが、大事件。お父様が海外に転勤決定。ご相談を受けた。
「家族は離れ離れになるべきではありません。彼なら大丈夫。毎月のテストと学習資材はこちらから送ります。お父様、お母様がスケジュール通りやらせてくだされば、一年後帰国なさって受験されても大丈夫です」と述べた。
結果としてそのとおりになった。塾屋は簡単に言ったが、ご夫婦で一年間受験勉強を管理されたのは実にたいへんだったろう、とあらためて拝察する。
残念なことに、抽選で落ちて泣く泣く公立の中高一貫校へとすすんだ。高校入試で、附属高校を再受験するのは、村上にとって既定路線であった。
「中学では、ぶっちぎりで学年1番になります」という村上の予想は、見事に外れて、5.6番あたりをうろうろする成績が多かったように思う。定期試験後には毎回のようにお母様からご心配のメールをいただいた。しかし、塾ではのびのびと実力を蓄えていたので、ひたすら楽観的に構えていた。
 思えば、T君に関して一度も悲観的になったことがない。なる要因が見当たらなかった。確かに答案処理に雑な面はあったし、整理整頓は上手とは言えなかった。忘れ物も多かった。しかし、そうした弱点を圧倒的に凌駕する頭の回転の速さ、論理的思考力、知識欲、暗記力、そして何よりもすぐれた洞察力をもっていた。教えて教えられるものではない天賦の才にあふれていた、と言えばよいか。塾屋としては、何をいつまでにどうすればよいか、ガイドラインを示してやればよかった。あとは彼が猛烈な勢いでそれを片付ければよかった。
 学校では時に私語が多いことを指摘されていたこともあったようだ。仕方あるまい。くだらない授業や、面白くもない授業を行儀よく聞くにはやんちゃすぎたように思う。運動能力も秀逸で、脚も速かったし、運動部でもよく活躍した。元気いっぱいの少年だった。おとなしく授業をきくわけがない。学校の先生には扱いづらいところもある生徒だったかも知れない。
 定期試験の答案に点字で答えを書いたり、ピカソのウルトラ級に長い本名を狭い解答欄にびっしり書き込んだりしていた。それを面白がってしまう塾屋もいけなかったのだが。
 中高一貫校にいる以上、高校受験をするかしないか、ご家庭で迷われたのはごもっともなことで、あらゆる角度から考察を重ねられていた。相談を受けた村上はひたすら「大丈夫です」の一点ばりであったが。
 村上の抱える問題は、いかに彼に全力をあげた受験勉強をさせるか、という点にあった。広大附属福山高校の入試問題で彼が本気になることはないように思われた。そのあたりのことを、2008年2月のブログから、灘高受験に失敗したときの報告を記録した記事から、内容の重複を恐れず再録すると、、、

『「落ちました」の電話。
 前々日の英語でガス欠を起こしていたので、驚くこともなく淡々と聞いた。「数学は全部できたんですけれど、、、」ふぅむ、ここ一番で集中力が極められ、冴えわたるタイプだということは、今回の受験ではっきり証明されたわけだ。入試成績の情報開示があるから、あとでゆっくり分析しよう、ということで受話器を置いた。これで彼の受験も終わった。ご両親にはご迷惑をおかけした。二日間にわたる入学試験。一日目のあと、敢えて宿をとらず、神戸まで新幹線での往復をお願いした。お手間をとらせてしまった。結果も残念で、無理にお願いした立場としてお詫びの言葉もない。
 僕たちが、岡山白陵でもなく、愛光でもなく、灘にチャレンジしたのは、ただ高レベルの学習をすることで、彼の学習に対するモチベーションを高めるためだった。掛け値なしに言うけれど、岡山白陵や愛光の問題では不足だったのだ。
 彼はいわゆる「附属中くじ落ち」の生徒だった。公立の中高一貫校に進学してからは、ずっと学年上位にいた。5番以内にはいた。クラブ活動も熱心で3年の夏には県体までちゃんと勝ち進んだ。ただ提出物はからっきし管理できていなかったし、試験範囲も知らずに試験を受けることは多かった。たぶん、授業もあまり熱心には聴いていなかっただろう。教室の机の中はプリント類のゴミ箱と化していたそうな、塾でも彼の使用する机の中は、膨大なプリントの集積所と化すので、しょっちゅう有無を言わせず捨てた。山のように計算用紙を抱える必然性はないところで、捨てずにさりとて整理もせずにプリントを抱え込む癖は最後まで直らなかった。やんちゃ坊主のイタズラ好きで、独特のユーモアはあるけれど、決しておとなしいタイプではない。塾では中2から飛び級した。漢検2級は中2でクリア。英検2級も中3でクリア。LECの最年少記録を次々塗り替えていくスーパー受験生であった。中3の2学期に取り組んだ月刊誌「高校への数学」の学力コンテストも毎回成績優秀者氏名に名前が載った。2学期の時点で英語も数学も高校1年のクラスで何不足なくやっていけた。
 とにかく知的刺激を求めることが尋常ではなかった。附属入試の最終局面で、世界地理のマニアな事項を整理しようとして、中3ヤギさんチームに朝鮮半島のプリントはカットするように伝えたところ、彼は、そのプリントだけ熱心に暗記していた。朝鮮半島にどんな山や河があるか、目的もなく暗記できるその精神構造がなぞだった。まったくぅ。定期試験であっても、ピカソの本名をフルネームで書いてみたり、国連の機関名を全部英語で書いたり、英作文を点字でやろうとしたり、彼が中学在学中にやった悪ふざけのリストを作るのはまことに楽しい。
 はみ出していく知力を、通常の受験勉強の枠内に納まりきらない、自分のパワーとスピードをもてあましていた彼が、やっと本気で取り組むことができたのが、灘の入試問題だった。灘の受験を本格的に始動させて始めて、彼の受験遊びが、受験勉強へと変質した。知らない事柄が続々現れ、読んでも読んでもつかみきれない英語長文がどこどこ出てできて、やっと彼の頭脳が受験モードに入った。言ってみればその時点で、附属→灘という併願作戦は成功したようなものだった。本気で勉強するべき時期に、本気で勉強させられるかどうか、が問われていたのだから。
 そのうち、彼の口から「受かりたいです」の言葉がきかれるようになって、質問は量と鋭さを増し、彼の受験勉強はいっそう輝きをました。合格させてやりたかった。間接話法をたった40分の解説でマスターし、教えなくても余弦定理を自力で証明してしまう彼に、ちょっぴり自信をつけさせてやりたかった。いずれ3年後、灘高生と大学入試の現場で競うときに気後れすることなく対峙できる、ちょっとしたささやかなエピソードを経験させてやりたかった。
 夢と散った。
 ならば現実を見るしかない。来週からは大急ぎで数Ⅱにはいって、先行する高校中級の生徒たちに追いつかなければならない。フリーハンドで受験指導を任せていただいている塾屋のご両親に対するご恩返しは、たぶん、そういう形になる。』

 中学・高校・大学受験で唯一の不合格を経験させてしまった記事だ。これは塾屋の指導の失敗の記録であって、彼のミスではない。もっと指導上手な
塾講師が教えていれば、彼は楽々と合格していたであろう。
昨日、彼が残した言葉もまた印象深かった。「そんなに切羽詰って勉強したという記憶がありません。部活をやめてからは、暇な時間が増えてむしろ遊んでしまいました。大学1.2年の間は、受験勉強並に忙しい、と先輩から聞きましたが、クラブは何かしようと思います。たぶん、その方が勉強すると思うので、、、」
 
 そう、余裕の合格だった。センター地理を直前一週間で仕上げて90点台をとってしまうというリスキーなこともしていたけれど、全体的には余裕の合格だった、と言ってよいのではないか。だから、たぶん、この才能豊かな少年が、本当にその才能を開花させるのは大学に入ってからなのだ。好きな物理をとことん究めてほしい。そしてできれば、(いつも理系進学者にお願いしてしまうのだけれど)、宇宙飛行士になってくれ。
(先日、小5男子に「先生の夢って何?」と尋ねられて「宇宙飛行士」とこたえたら、「もう遅かろう」と一刀両断された、、、村上の見果てぬ夢であろうか)
 楽しかった9年間をありがとう。いったいこの子はどこまで伸びてゆくのだろう、と本当に楽しませてもらった、そして、たぶん、これからも楽しませてもらえるだろう。
 大いなる未来をこれまで同様やんちゃに切り開いてください。それこそ君らしい。