クラス分け名簿送信など

保護者の皆様

中学初級・中級・上級 高校生のクラス分け名簿を先ほどメールで送信しました。

個人の学力、生徒在籍校の学習レベル、学習進度等、いろいろ勘案事項があって、作業が難航しました。うんうんうなっているうちに、日曜日になりました。遅くなってすみません。

ご理解いただけるとありがたいです。

何かありましたらご連絡ください。

 

Aクラスは従来通り標準レベルのテキストをより丁寧に扱い、基礎・基本を徹底的にかためていきます。

Bクラスは、発展レベルのテキストにきりかえ応用力をビシバシ鍛えます。

そうは言っても、あくまで生徒の反応をみながらの話で、授業は本質的に彼らとの共同作業ですから、やってみなければわからないところは、正直言って多々あります。

クラスの中で個々の生徒が担ってきた役割がガラッと変質するわけですから、雰囲気も、授業テンポも、扱う問題のレベルも変わります。

ムードメーカだった生徒がいなくなるケースもあれば、ロールモデルだった生徒がいなくなるケースもあります。はじめはぎくしゃくするかもしれません。焦らず冷静に対応していれば、そのうち、必ず落ち着いてきて、各自それぞれのポジションで新しい役割を演じていくようになります。それに関しては全く心配していません。そういう意味で、子どもは変わらない。昔の子も、今の子も、みんな同じ。変わっていくのは社会、大人(親)の評価軸。それは、また別の話。

 

クラスを分ける意味が、ただ密集・密接を避けるためにはしたくない。

教えやすい環境にした以上、その好条件を積極的に活用し、ひとりひとりの生徒の反応を引き出し、それに即応し、どれだけ中身の濃い授業をできるか、試さなければならない。

私の力量がいっそう厳しく問われます。本田宗一郎氏のお言葉「創造的破壊」を心に刻んで、これまで以上に、生き生きとした授業をやってみたい。いままでやってこなかったことをどんどん試してみたい。

「おまえにどれだけのアイデアとプランがあるのか出してみろ」と問われているのはまちがいない。

と言いつつ、AクラスとBクラスに互換性をどれだけ維持するか、悩ましいところです。生徒の入れ替えを前提にしている以上、相互に過度に排他的にならないようにしておかなければならない。常に開かれた回路があって、AクラスとBクラスが相互交流するシステムがあればこそ、それぞれのクラスは停滞することなく発展する。ここは今後の各クラスの成熟度次第というところだと思います。

昨年までと大きく異なるであろう点は、いわゆる「飛び級」をする必要がなくなることではないでしょうか。中学初級Bクラスが一致団結怒涛の勢いで学習すれば、中学一年の内容を完了するのに2か月もかからない。秋口には中2の内容に踏み込める。そこからさらに加速すれば、中1の終わりには、中2の内容があらかたマスターできてしまう。

いやいや捕らぬ狸の皮算用、そんなに物事がうまくいくわけがない。学習過程には飛躍もあれば頓挫、停滞もあるのが世の常。状況を正しく認識する姿勢を失うと、たちまち陥穽に突っ込み身動き取れなくなることは必定。

希望的観測にしたがって危機管理を怠り、失敗をくりかえしてきたことを、私たちは歴史から学ばなけれならない。

「飛び級」に関しては、慎重に考察をすすめます。

 

「スクラップアンドビルドをくり返し、この国は発展してきた」

(シン・ゴジラ 赤坂総理大臣補佐官のち内閣官房長官)

非常事態宣言が出され、東京で感染者が急増していたころ、ネットで「シン・ゴジラ」を見ました。4回目になります。ゴジラが東京を火の海に変えるシーンが、あたかも新型コロナウィルスが東京を襲うイメージと重なり、その予言的な象徴性に唸りました。そして新たな再生を期す政治家が口にした言葉。1945年夏の敗戦とゴジラを重ね合わせ、明確な未来像を描く姿が印象的でした。ひょっとすると私たちは今、そうした場面に近いところにいるのではないか、という気がしています。

もちろん、日本をどうこうしようとか思っていません。

自分の立ち位置で、手の届くところで、これまでの価値観にとらわれず、未来をしっかり見通す姿勢を凛として示さなければならない。状況に流されるのではなく、状況を正しく認識し、人智を尽くして判断し、合理的に行動することがいっそう求められている。それが、これからの未来を担う子どもたちに接する大人としての礼儀ではないか、と思っています。

 

6月1日(月)から始まる新しいLECをよろしくお願いいたします。