「小学生の宿題代行業者」

 が、繁盛しているそうな。算数・読書感想文・自由研究・工作、なんでもあり、らしい。
まったく、情けない世の中になったもんだ。しかし、そうは言っても、昔だって、必ずしも子どもが全部やっていたわけじゃない、親が手を貸していたことだってあるはずだ。中学入試の定番問題に出てくる安岡章太郎の自伝的小説は、その機微を実に見事に描いていて、いつ読んでも笑える。戦前の話だけれど、まったく違和感がない。泣きながら子の帳面を埋めていく母親の姿が哀れを誘う。
 今は、親すら手を貸さない時代になっただけの話か。とすれば、この「宿題代行業」は、子どものためではなく、親のためにある?
 宿題が間に合わないのなら、正々堂々、間に合わなかったことを白状して、学校の先生にこっぴどく締め上げてもらえばいい。ガツンと一発怒られて初めて気づく事だってあるだろう。
 体裁だけつくろって、中身はゼロ、とりあえず、怒られなければいい、という発想はあまりに貧しい。そんな発想にからめとられた子が、積極的に問題解決にチャレンジする子どもになるとは思えない。さらに、お金で解決する、というのは、正気の沙汰ではあるまい。あまりに漫画的でのけぞってしまう。お金というものはもっと貴重なものではなかったか。「宿題」を「代行業者」から買うことで失うものがどれほど大きいか。どうして分からないのだろう。
 あのマリナーズのイチローが、子どもらに「小学生は宿題をまじめにやりなさい。大人になって社会に出ても、やりたくないのにやらなければいけないことはたくさんある。辛抱強くそれをやる姿勢を小学校のときに養うことは大切だ」とあるところで述べていた。まさに、しかり。
 もちろん、もっと楽しんで取り組めれば一番いいのだけれど。それはなかなか難しい。だから、①我慢してやる。②どうしても意味がないと思うなら、やらずに怒られる。③とにかく頑張ってみる、間に合わなかったら、正直に言って怒られる。言い訳はしない。とるべき道はこの三つぐらいだろう。
 かつて、ある生徒(当時中学二年生)の保護者に次のような発言をした。
 「今、あの子に、この英語の宿題をやれというのは無理です。英語嫌いにするだけです。目をつぶって踏み倒し、先生に怒られるしかないでしょう。大丈夫です。必ずなんとかなります。あの子は、意味もなく単語を30回も書くような宿題には不向きだけれど、論理的に英文法のルールを理解し、運用する合理性は豊かにもっています。」彼は学校の英語の宿題をその後も踏み倒し続けた。結果、一浪して近辺の国立大学に進学した。紆余曲折はあったけれど、何とかなった生徒だと思う。