きょうは晴天@リビング

庭のパンジーたちが風にふるえている。外はかなり風が舞っているようだ。台風14号の影響か、はたまた北西の季節風か、おかしな天気。昨夜、電気ストーブを出した。

昨日、規則性を学習している小5のクラスで、フィボナッチ数列の問題を出した。といっても以下のような至極単純なもの。

1 1 2 3 5 8 13 ( )

毎年、宿題で出してもひとりかふたりしか解けない。今年は、その場で考えさせてみることにした。典型的な等差数列や等比数列の問題なら一発解答できるようになった余興として。制限時間は2分だった。スタート30秒でひとりめ、1分でふたりめが正解にたどりついた。のこり8名は残念ながらアウト。

第一発見者は「2と3があって5になってるから、足せばいいんだと思った」と感想を述べた。すこぶる健全な発想だ。しかし、どの子にも生まれる発想ではない。下手に等差数列を習ったばっかりに、加えられている数を計算し、つじつまがあわなくなって途方に暮れている子もいた。あるいは、見かけの不規則性に戸惑ってフリーズしてしまう子もいた。

「足せばいい」と思った子は、このクラスではもっとも算数が得意な子である。ただし、得意だからと言っていつも一番良い成績をとるわけではない。雑な答案処理でしばしば凡ミスをする。むしろ、「足せばいい」と気づかなかったけれど、パターン暗記が上手で比較的ていねいに答案処理ができる子の方が試験の得点がよい場合がある。そつなく得点をとる力は別のものだ。

「足せばいい」と気づく発想が、その子の論理的思考力の絶対的な指標になるとは思わないし、たんなる偶然であることもじゅうぶん考えられる。だから、「気づかなかった」から「算数ができない」と決めつけることはできないし、「気づいた」から「算数ができる」とも断定できない。ある種の数感覚が鋭敏に機能しているかどうか語る目安にはなる。

しかし、こうした数感覚の鋭さは「初見」の問題を解く武器になることが多い。パターン暗記に頼る子たちは、「習っていない」=「解けない」という呪縛からしばしば自由になれない。教えていてもどかしい。考えれば、当然見えてくるはずの数の関係性に気づこうとしないから、塾屋はつい「考えろよ、もっと考え抜けよ」と高圧的に迫ってしまう。

「当然見えてくるはずの数の関係性」とは、たいへん曖昧な表現だ。子どもよりも認識力のまさった大人がよく口にする、そして何の問題解決にもつながらない「読めばわかるでしょう」という常套句を生み出す元凶になりかねない。言われた子どもは、パニックをおこし、心身ともにすくみ、思考を停止していたずらに劣等感ばかり抱くだろう。最悪の結果に一直線にすすむ。

「読んでもわかならい」、「当然見えてくるはずのものが見えてこない」から困っている子に、その時点でないものねだりをしても始まらない。「気づく」ようになるまで反復トレーニングさせればよい。できる子の、気づきの型、発想の仕方を真似て練習させ、習慣化させ、自分のものとして使いこなせるようになるまで導けばよい。もちろん、塾屋にとって楽な話ではない。時間もかかる。しかし、継続に成功すれば子どもは必ず劇的に成長する。脱皮してぐんと大きくなる。求められている脱皮回数が、モンシロ蝶のように4回では足りない、というだけだ。

問題は、その過程を子どもも塾屋も楽しめるかどうか、であろう。難しい。子どもに時に過負荷をかけることは避けて通れない。一般的に、子どもの非連続的な飛躍は追い詰められた状況下で達成される。だから、そんな切迫した状況すら、どこかで楽しんでしまえるような導き方が、塾屋には求められている。

一世代前なら、ともに辛苦を耐え抜き受験道に精進し、ということになるのだろう。修行僧には向いていない村上にはできない。どこかで「楽しくなければ塾ではない」と思ってしまう。甘いよなぁ、と思うけれど。いや、子どもに言わせれば、「どこが楽しいんよ。無茶苦茶しんどいじゃん」ということになるかもしれない。塾屋の独善を許容できない生徒がいてもあたりまえだ。

難しいけれど楽しい、そうした相反する感覚のバランスをとるのは、ひとつは目的意識、ひとつは信頼関係であろう。子どもなりに決然とした目的意識があれば、困難な営みそのものが目的達成への手ごたえとして感じられるだろう。ひとりではくじける状況でも、信頼できる仲間の存在を励みとし、指導者に勇気づけられることで乗り越えていけるだろう。

手ごたえは充実感を生み、いっそう力強くすすむエネルギーに転化する。学習環境の親和力は個人の抗耐性を高め、団体の結束力は、個々の限界値をはるかに超える推進力をうみだす。

そういうLEC進学教室でありたい。