午前中は、

 久しぶりに休息。ただただ無為にごろごろした。
 午後、雨がやんだようにみえたので、庭の草取りを決行、実は霧雨程度の雨は時折感じられたけれど、作業全体に支障をきたすほどではなかった。庭の草取りはここ一週間の懸案事項だった。ずっと塾の工事に拘束されていたので、草の伸び放題に任せていた。全力二時間、ルイ・アームストロングのベスト盤をきっちり全部きき終えてもまだ仕上げには少し時間が必要で、最後は息があがってしまった。音楽も両手の作業もあまり記憶に残っていない。草取りが創造性に欠ける作業だったから、というよりも、ずっと、この春受験指導に失敗した生徒たちのことを考えていたからだ。
 いたたまれない思い、悔恨、罪悪感、その他もろもろの形容し難い心の痛みが、沸き立つように膨れ上がってははじけ、はじけてはまた膨れ上がってくる堂々巡りとひたすら草をむしる作業が、均衡を保ちながら単調に継続した。
 雑草のなくなった庭はできた。しかし、何かを生み出したわけではなかった。さりとて何かを失ったわけでもなかった。確かなことは何も解決しなかった、ということだ。そもそも解決などありはしない。受け入れなければならない現実を受け入れたつもりになっていても、時に荒々しく心揺さぶられ、自責の念を苦く噛み締めなければならない時はあり、それは塾屋の逃れられない定めということだ。
 サッチモが歌う"What a wonderful world!"が、かすかに耳の奥に聞こえる。それがはかない感傷的な願望だとしても、他にすがるものはない午後だった。