きょう出会った言葉

「無責任な応援」

 アメリカ在住のあるお方がツイートで使われていた。アメリカの社会には、「無責任な応援」が渦巻いている、と。
そもそもは、橋本大阪市長が唱えた、小学生の「留年」に対する反論として主張されていた。「留年」は子どもに、回復不可能な精神的傷跡を残す恐れがある。子どものできない面に着目して働きかけるのではなく、できる面をどんどん伸ばしてやればよい、と。
まったく、そのとおりだと思う。
「お前はダメだ」と決めつけられて、誰が大きくなりたいだろう。
「やればできる」「チャレンジしろ」「がんばればなんとかなる」と励まされてこそ、伸びる資質の方が圧倒的に多いだろう。
もちろん、そこに「無責任」がまとわりつく可能性はある。根拠を明示しないまま、「やればできる」と言われても、なかなかその気になれない子どもも多いだろう。根拠を明示され、意を尽くして説明されても、引っ込み思案の子は、なかなかアクションを起こしにくいことだってあるだろう。また、その気になって頑張ってはみたものの、思うような成果が得られないことは数えきれないくらいあるだろう、その結果、深く傷つくこともあるにちがいない。

しかし、にもかかわらず、「無責任な応援」を私は支持する。
子どもはとことん励まされるべきだし、応援されるべきだ。
たった一回しかない人生なんだから、どんどんやっちゃえ!失敗がなんだ、チャンスは何回だってあるんだ、敗者復活戦をしぶとく戦い抜いてこそ人生だろう、何もかもうまくいくことなんて絶対ないんだから、一度や二度失敗したからってなんだ、七転び八起き、しぶとくあきらめずにやり抜くんだ!
と子どもたちを鼓舞したい。
なぜなら、そうした働きかけがあって初めて、子どもは自分たちの殻を破り、あたらしい自信を手に入れ、あたらしい勇気を身につけ、より強力に自分たちの運命を切り開く力を手に入れるから。
受入れ難い現実や、耐えがたい苦痛に一時的に身をさらしても、前向きに対峙する精神を手放さないかぎり、それは必ず次のステップへ足がかりになり、成功への確かな糧になる。そうした主体的な生き方は、まさにチャレンジする中で養われていくものだ。リスクを背負わなければ、前向きも後ろ向きもない。より着実な、より安定したアプローチを求めようとして保守的になるよりも、破れかぶれであろうとアタックし続ける姿勢を子どもらには求めたい。
やがて、より成熟した大人になれば、今度は合理的にリスクを計算し、現実的な折り合いのつけ方を学ばなければならないことは言うまでもないけれど、大人になる前から、計算高い人生を歩む必要はない。夢や希望はそうした計算の圏外にあるはずだ。
見果てぬ夢を追いかけ、届かぬ星に手を伸ばす、あのひりひりとした心の渇きをもつ子らを大人は精一杯応援してやるべきだ、たとえ、無責任と言われようとも。
無責任だからこそ、子どもの言葉に素直に感動し、その気持ちを共有することができるのではないか。子どもを理解し、支援する最初の一歩は、まさに、「無責任な応援」からはじまるのではないか。
村上の33年間の塾屋生活は「無責任な応援」が沸騰している33年間だったと言えなくもない。


(詳しくは、村上のTL上に、さまざまな方々が考察された「無責任な応援」に関するまとめ をRTさせていただいているのでそちらをご覧ください)