結局

 DSは手に入らず、ソフトは不遇を囲っている。量販店にも行ってみたが、品切れ状態のまま。恐るべし、任天堂。
 アニメといい、ゲーム機といい、日本文化として国際的に認知されはじめた商業製品には、「子ども化」という共通項がある。「子ども化」=「幼稚化」と批判される側面は免れないだろう。安直に楽しめて、たちまち消費されて消えていく。刺激的ではあっても、心を陶冶し精神の健全な成長に寄与することは少ない。サブ・カルチャーなんてそんなもの。刹那的享楽度が高くなければ、商品価値がない。だから商業的に成功するためには時代の動向とシンクロしていなければならない。それゆえ一過性の産物であることは宿命付けられている。普遍的な価値を見出すこともできないわけではないだろうけれど、それは結果として付随してくるものにすぎない。本来の製作目的ではない。ゆえに、芸術作品とは根本的に異なる。だから、文化としてアニメやゲームを語ることは本質的に間違っている。文化とは時代を超えて受け継がれ、磨かれ、その文化に属するものに限りない価値創造性を与えるものだ。
 そもそも「子ども」は「文化的な難しいもの」は求めていない。楽しければいいのだ。大人にはどんなに退屈で、無意味な反復動作でも、「子ども」はわくわくして心の底からおもしろがることができる。「子ども」はそれでいい。わくわくする気持ち、センス・オブ・ワンダーこそ、発見・探究の出発点に他ならない。おおいに磨けばよい。
 問題があるとすれば、十分に成熟した精神をもち、思慮分別を兼ね備えているべき世代が、子ども対象の商業製品に、過剰な依存をしてしまう、いや、させられてしまっている点であろう。それは、しかし、また、別のお話。たかだかニンテンドーDS(Lite)が手に入らなかっただけのことから、話が大きくなってしまった。愛車のCDプレーヤーが二ヶ月ぶりに生き返り、久しぶりに大音量でモーツアルト三昧を堪能できたおかげで、脳のネジがまた一本ねじれたらしい。