そろそろと、そろそろと。

何でもそうだけれど、そう簡単に物事は一気によくならない。時に絶望的にみえるときにも耐え忍び、状況が好転するまで、さまざまな負荷に耐え続けなければならないのはあたりまえのことだ。
何としても手に入れたいものがあれば、子どもは自然に耐性を発揮する。もともと執着力の強い子には(負けず嫌いの子には)、魅力的な目標をはっきりと提示するだけでよい。月に向かって「我に艱難辛苦を与え給え」って叫ぶ子はさすがにいないけれど、あらゆる困難を試練と捉えて、主体的に克服しようとする子たちは、よく耐え、よく伸び、よく成長する。そんな子たちを指導するのに難しい理屈はいらない。次から次へと新しい課題を提示し続ければよい。オートマチックに咀嚼し、消化し、パワーアップしてくれる。
問題は、そうではない圧倒的大多数の子たちだ。そこそこの耐性、そこそこの執着力、そこそこの向上心は確かに持っている。しかし、根本的なところで、自分にとって「何がかけがえのないものなのか」見極められていない。だから、優柔不断で、時に判断を誤り、結果として行動が徹底しない。いいものを持ちながら伸び悩む。
価値観が多元化相対化し、情報が氾濫する社会で、自分にとって「魅力的なもの」を見つけることに多くの困難を伴うことはよくわかる。しかし、困難であっても不可能ではない。さまざまな幸運が重なってはじめて可能となるかもしれないが、それでも、見つける努力をするべきだ。
多くの場合、すぐれた書物との出会いが、そうした幸運を招く。人によっては、それは映画であったり、講演であったりすることもあるだろう。自分とは異なる世界に属する人々の発信する情報を積極的に受け入れていけば、どこかで必ず何かがヒットする。
最良のケースは、最も身近な大人、親が子どもにきちんとした指針を与えてやれる場合だろう。親が、その年齢に応じて、子どもの話をよく聴き、よく理解し、子どもがきちんと理解できるように、子に「魅力的なもの」を語りつづけてやることができれば、子は時に批判的になることはあっても、その言葉を手がかりに自己の価値観形成に主体的に取り組むだろう。子を想う親の愛情が、ぶれることなく一貫していれば、むしろ多弁は必要ない。ほんの数語であっても、子は親から多くのものを吸収する。なぜなら、ともに生活しているのだから、一挙手一投足が、言葉以上に雄弁に子を鼓舞する。

以上、この項、ここまで、結論はありません。