ある高校のお話 伝聞と推測と、ちょっぴり憶測

 センター試験の結果が思わしくなく、進路指導室が殺気立っている。実績を確保するために、私立志望の生徒にまで、国公立大学受験を命じているそうな。別の学校でも、すでに第一志望の私立大学推薦入試で合格を決め、のんびり入学準備をすすめていた子にまで、国公立大学受験を義務づけ、実績の底上げを図る学校もあるから、このあわてふためく学校ばかりを責められないのだが、なりふりかまわぬ実績作りに幻滅を感じるのは僕一人ではあるまい。
 センター試験の結果に一番動揺しているのは子どもたちである。学校の先生には穏やかに生徒を励まし、勇気づける度量をもってもらいたい。教師が神経質になってチームワークを乱した状態で、子どもたちがラストの追い込みに成功するはずがない。課せられたノルマを達成できなければ、責任を問われることになるのはどこの社会でも同じだが、学校の実績のために、子どもらが手段として扱われてはなるまい。行きたくもない学校を無理やり受験させられたりすることのないようにして欲しい。
 結局、トップリーダーである校長の器量ひとつであろう。どんな結果になっても、校長が責任をとることを明言し、進路指導の教師には、まずもって、子どもたちを心あたたかく導く姿勢を失うことのないように厳命するべきであろう。守るべきは実績ではなく、子どもたちの人間性であり、希望であり、夢である。
 教育委員会→校長→進路指導担当→子ども、という抑圧移譲の負の連鎖を断ち切るには、確固とした教育理念が必要であろうし、組織人としてしたたかにふるまう行動力も必要であろう。官僚組織として教育委員会が非人間的な存在になるのは避けられないが、生身の人間である校長が、同じ次元で学校を統括しているようでは、学校は子どもらを萎縮させ、不要な劣等感を植え付ける場所にはなっても、あたたかく励ます場にはならないだろう。
 センター試験の失敗、私立大学入試での不振、崖っぷちに追い込まれても、笑顔を絶やさず、子どもらをあたたかく励まし続け、どんな結果も潔く受け入れ、子どもらに、未来に対して前向きの姿勢をとらせ続ける、そんな教師を子どもらは求めている。保護者も求めている。一市民として僕も求めたい、自戒をこめて心からそう思う。