懇談

懇談が続く。雑談には決してならない、なりえない保護者の切実な思いが、弾丸となって僕の心に命中する。思いは時に言葉にならないまま、一瞬の静寂やふとした表情の揺らぎとなって表出もするけれど、それはまた別の質量をもって、僕の心に浸透する。
そうした思いを構えて待つことはできない。そもそも、1日に10人を超える方々と懇談を組むとき、構え続けていられるほど、僕は剛直な精神の所有者ではない。それどころか、はっきり言ってノーガードと言ってよい。反射的にあさましく身構えることもないわけではないけれど、可能な限り、懇談の場に波動する思いを一つ一つきちんと自然体で受け止めようと努めている。
これは倫理的にそうするべきであるとか、誠実にふるまいたいというより、閉じられた空間で、ともすると専制君主として独裁権力をふるう塾屋が、驕りに身を持ち崩し、現実認識を誤って自壊することをさけるための、言わば身についた処世術のようなものだと思う。決してうまく機能しているわけではないが、17年間塾を続けてこられたほどには、機能している。いや、ただ運がよかっただけかもしれない、そう思うことは多々ある。
いずれにせよ、懇談では、絶対に忘れてはならないことが必ず語られ、その言葉や、その言葉が発せられたときの、あるいは発せられなかったときの間合いや表情が記憶され、記憶をつかさどる塾屋の脳の芯はたちまち合金で皮膜硬化処理され、磨耗や風化は起こりえない形に調えられて格納されていく。堆積する記憶は年々重くなる。耐え難い、わけではない、また、心地よいわけでもない、たぶんその中間のどこかで、まっすぐにその重さを感じている間は、僕は塾屋としての働きを許されるように思っている。耐え難くなることも、心地よくなることも禁じられた地点に立ち続け、保護者の思いを受け取ること、たぶん、塾屋にとっての保護者懇談とはそういうものだ。