明日は明日で、

おや、もう日付が変わったので9月24日。三連休の中日の土曜日に、ほぼ14時間のお勤めが待っているというのに、まだ、こうして起きているのは自殺行為にちがいない。

昨日のこと(つまり23日)、中3の生徒たちに「全県もし」の結果を返却した。おおむね実力通りの結果が出た、と受け止めている。昨年は、この模擬試験の好結果から波に乗った子が数名いた。今年もそうであってくれたらなぁ、と柳の下に二匹目のドジョウをつい期待してしまう。が、思い通りにはいくわけがないので、今年は今年で、また「ああでもない、こうでもない」と無い知恵を絞って、学習指導の向上を図ることになるだろう。

もちろん彼ら彼女らを波に乗せたいのはヤマヤマだけれど、乗るも乗らないも彼ら次第、あれこれ細工はするけれど、踊る気のないものが気持ちよく舞いを舞うはずもない。いや、そんなあたりまえのことはどうでもよい。それよりも、年々村上と生徒との年齢差が開き、自分はこっちにいて、生徒はあっちにいるという断絶感がひしひしと感じられるようになってきた。

経験に基づいたスマートで無駄のない授業をしたと思ったら、実は確実に自己満足で、必ず何人かの生徒たちを置いてきぼりにしている。気合を込めてガンガン押しまくると、必ず泣き出す生徒が現れていきすぎる。計算することなく、自然体の呼吸で生徒たちとシンクロすることは、もはやめったにない。彼らはあちら側にいて、手練手管を駆使して溝を越えていって初めて生徒の側にたつことができる。

いや、それは、ただたんに、根拠もなく自惚れて自分は生徒の側にいるという幻想がはかなくも打ち破られただけ、ありのままの現実を正しく認識しているだけなのかもしれない。願望を現実ととりちがえてはいけない。塾屋が生徒を安易に理解した気になるのも有害なら、理解できないと諦観するのも益がない。確かに意思疎通する瞬間もあれば、何度言っても言葉が届かないこともある。20年間常にそうであったように、これからもそれは変わらないはずだ。

あたりまえすぎて、今さら何を、と思うものの、塾屋の秋の営みはすべからく、そうしたあたりまえの出来事の上に成り立っている。

ならば、今年も言わせてもらおう。
楽しませてもらうぜ」と。