「直線は180度」小4

 きわめて抽象的なお約束が、角の重なりを求めるときの絶対的なルールになる。「数感覚」とでも言うべき生得的なものがあって、鋭敏な生徒は、ホワイトボードで示された図や線を数値で表すことに何のためらいもない。ひょっとして、人生そのものを数式で考えているかもしれない(そういう書籍もある)。まあ、損得にうるさいタイプかもしれない。

ところが、世の中には、目の前の現象を数的表現で一元化することに不慣れな子どももいる。量の大小を直感的につかむことはできるのだが、ではその差をどうあらわしていくか、ということになると、とたんに右往左往し始める。ましてさまざまな単位換算が絡んでくると、もうパニックである。「順序だてて」とか「ひとつひとつ」とか、お決まりの文句は通用しない、とりあえず、コンセントを抜いて、しばらく待って、スイッチを入れなおすしかない。

たとえば、算数の文章題も10年ぐらいコンセントを抜いて、20歳を過ぎてから考えれば、たいがいの問題は楽勝であろう。認識力が段違いに成長しているから、実に鮮明に、変化と差が理解され、たちどころに問題が解けるはずである。哀しいかな、子どもにはそれが読み取れない。読み取れないから、頭が悪いわけではない。読み取るには、算数向きの認識力がいるだけの話なのだ。経験によっていくらでも伸張する「数感覚」で、算数認識力はいくらでも向上し、大人になれば解けない問題はなくなるのだが、経験不足の子どもには、途方もない難問としてうつる。「数感覚」があるレベル以上になれば、グラフも面積図も文章題を解くための有効な武器になるが、「数感覚」が未熟な子どもには、扱いきれない欠陥兵器と化して、自爆装置になりかねない。

リズム感のない人間に楽器の演奏は無理だが、生得的な「数感覚」の鈍い人間も、経験によって補った「数感覚」で算数を解くことは容易になる。あきらめることはない、たいした感覚ではない。お約束をお約束として身につけるすばっしこさをちょっと磨き、あとは、まじめに経験を積めば、バリバリ成長する。

経験がほとんどの問題を解決すると言ってよい。一滴一滴の豊かな経験が、ある日、満水になってあふれ出る水のように子どもらの頭脳を満たしたとき、その子の飛躍は始まり、算数認識力の絢爛たる開花に、人は賛嘆の声をあげる。

非力な塾屋の爆裂妄想でした。